家臣の動揺を抑えるために行ったこと

こうしてどうにか浜松城にたどり着いたものの、城兵は当初、家康だとは気づかず、何度も武重が「城門を開けよ」と叫んでも開けなかったという。城兵の異常な警戒ぶりがよくわかる。

すでに徳川が大敗したという情報は、浜松城に伝わっていたのだろう。城に戻った家康は城門を開かせ、松明を焚き、敗兵がすぐに城内に逃げ込めるようにした。

これを危惧する家臣もいたが、「逆に門が開いていれば、やってきた敵は不審に思い近づかないだろう」と述べたという。また、家康は高木広正に命じ、彼が討ち取った首級を武田信玄のものだと偽らせ、城中の不安を和らげたとされる。

そして、敗戦当夜、鳥居元忠と渡辺守綱に夜襲を敢行させ、武田軍を牽制したのだ。また、『三河物語』によれば、勝利した信玄が首実検をしているところに、大久保忠世が鉄砲を撃ちかけ、驚かせたとある。

なお、帰城した家康は、湯漬けを3杯平らげ、高いびきをかいて熟睡してしまったので、家臣たちはみな感心したという。

こうした逸話の数々は『徳川実紀』が採録した軍記物などの記述なので、事実かどうかは疑わしいが、そうまでしなくては家臣たちの動揺を抑えられなかったわけだ。

武田軍が浜松城を攻めなかったワケ

武田軍はすさまじい追撃に出たが、浜松城は包囲しなかった。おそらく信玄の目的は、信長の本拠地である美濃をたたくこと、あるいは上洛を果たすことであり、もし浜松城を囲めば、二俣城以上に月日がかかる。ゆえに始めから攻城戦は想定していなかったろう。

信玄はしばらく三方原北端の刑部おさかべに駐屯して年を越し、やがて三河の野田城をめざして消え去った。

武田晴信(信玄)像
武田晴信(信玄)像(画像=『風林火山 信玄・謙信、そして伝説の軍師』/高野山持明院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

三方原の戦いの戦死者は、武田軍が400人、徳川軍が1000人といわれ、勝負は家康の惨敗だった。