※本稿は、加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
家康が生涯唯一の大敗戦から学んだこと
1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦いは、家康が生涯に一度の完敗を喫した合戦として、後世に伝えられています。三方ヶ原の戦いは、徳川方の戦死者1180名、対する武田軍は200余に過ぎず、と伝えられています。
無謀にも名将信玄に真正面から挑んだ家康の「男気」は、後世、家康の武勇談となって伝えられますが、この敗戦から学んだことのほうが、家康にとっては一瞬の「男気」より何倍も大きなものでした。
家康が初陣を果たしてまもなく参陣した桶狭間の戦いで、2万を超える今川軍に対し、信長が2000の兵で敵の大将・今川義元を討ち果たし、勝利をつかんだ、との報に接したときの驚きと昂奮は、生涯忘れられないものだったに違いありません。
ですが、この時の家康はいただけません。感情的に高ぶっている人間には、そもそも冷静な状況判断はできませんでした。桶狭間の義元と三方ヶ原の信玄とでは、武将のタイプが違うのだ、という当たり前のことさえも、判断がつかなくなっていたのでしょう。
この敗戦後、家康は人生観が変わるほどの猛省をしています。天才信長のやり方を真似しても、そもそも卓越した才能のない自分には無理であった、ということを骨身に染みて思い知ったのです。
では、どうするか。
家康の選択は、「勉強法」の基礎である「真似ぶ」姿勢を存分に発揮したこと。これこそが、家康の「勉強法」の基本でした。
武田信玄の強さの源は何か
学ぶべきモデルを、家康は懸命に諸国の大名、武将の中に探し、その結果、大敗した敵の大将・武田信玄にいきついたのです。
中国の兵法の古典『孫子』は、こう説きます。
「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む」
勝つ軍隊は、まず勝利の条件を整えてから戦うが、敗れる軍隊は、まず戦ってからあわてて勝利の条件を整えようとする、という意味です。
信玄の強さの源は、まさにこれ=“真似ぶ”であった。ひらめきや奇策に頼るのではなく、常に堅実で道理にかなった戦い方によらねばならない。
家康はそのことに、九死に一生の中で気づいたのでした。
単に兵法書による机上の学問としてではなく、実際の合戦から、とりわけ大敗戦から学んだことは、家康にとって貴重な財産となりました。