人生最大の危機に家康がしたこと
とにもかくにも家康には一大事だった。同盟先で娘婿でもあった北条氏直に知らせたほか、各地に急いで伝達し、緊急の対応策を話し合った末、岡崎城をはじめ領国内の城をみな整備することにした。
それだけでは足りない。徳川家の軍法や軍事機密にいちばん通じている人間が、敵方の秀吉のもとに駆け込んだのである。すべては秀吉の知るところになったと考えるほかない。
そこで、旧武田軍の軍書を集めて、軍法をあらため軍制もすべて旧武田式に刷新することになった。
人質の要求を拒まれた秀吉は激怒して、家康を成敗することに決めた。
秀吉はその意志を複数の相手に書き送っており、本気だったのはまちがいない。
そして実行に移されていれば、家康は滅亡させられるか、所領を大幅に削減させられるか、どちらかになった可能性が高いだろう。
大河の家康からは考えられない果断
ところが、である。天正14年(1586)正月の出馬を宣言していた秀吉だったが、急遽取りやめている。
数正が出奔し、秀吉が「家康成敗」を決めた直後の天正13年(1585)11月29日、天正大地震が発生して、とりわけ近畿から尾張にかけては被害が甚大で、出馬どころではなくなってしまったものと考えられている。
一方、家康の領国だった三河以東は被害が少なく、家康は予定どおりに城を整備した。さらに、軍制を旧武田式にすることで、武田の残党を徳川軍に取り込んだばかりか、それまで三河の武士の連合体のようだった軍制をいわば中央集権の強力な体制に強化した。
危機を飛躍のチャンスにできるしたたかさが家康にはあった。だから、地震などの運を味方にできた。こうして、家康はみずからの軍事力をさらに高めることに成功し、結果的に秀吉に臣従はしたものの、秀吉政権下で高いプレゼンスを保つことになった。
結果論ではあるが、運にも恵まれなければ、天下など取れるものではないだろう。
ちなみに数正は、小田原攻めの功で信州松本城主に封じられ、いまにつながる松本城を築きはじめた。そして、秀吉の朝鮮出兵に際し、肥前名護屋に出陣するが、その地で没したとされている。
家康のもとを離れて以降、秀吉に忠義を尽くしたが、自身の出奔によって家康の立場を高めたのだから、石川数正は裏切ってなお、無二の忠臣としての役割を果たしたともいえる。