無二の忠臣といえる働きぶり

永禄7年(1564)2月に三河一向一揆を鎮圧すると、その年の夏以降、家康は東三河(愛知県東部のさらに東部)の平定事業を再開し、翌年3月に吉田城と田原城を落城させ、この地域を制圧。吉田城に、やはりドラマで家康の近くにいつも侍っている大森南朋演じる酒井忠次を入れ、東三河の旗頭とした。

一方、西三河はすでに、数正の叔父で三河一向一揆でも家康を裏切らなかった石川家成を旗頭としていた。だが、永禄12年(1569)、今川義元の嫡男で、溝端淳平の悩める悪役ぶりが話題の今川氏真が、こもっていた遠江東部(静岡県東部のさらに東部)の掛川城を明け渡したあと、家成は掛川に転出。その後は、数正が西三河の旗頭となった。

以後は、西三河では石川数正、東三河では酒井忠次が、それぞれ旗頭を務め、その下に松平一族や、土着の家臣である国衆らが配置されるという体制が整えられた。

酒井忠次の肖像画(先求院所蔵)
酒井忠次の肖像画(先求院所蔵)(写真=M-sho-gun/PD-Japan/Wikimedia Commons

戦国大名にとっては、戦いを勝ち抜いていくための強力な軍事態勢の構築がなによりも大切だった。そして、家康はその体制の要となる2人の統括役の一方を、数正に託したのである。

その後も、三方ヶ原の戦い、姉川の戦い、長篠の合戦など、重要な戦いの数々に参戦して武功を上げた。そして、家康の嫡男の信康が切腹を余儀なくされたのちには、岡崎城代を務めて軍事ばかりか内政面でも力を尽くし、家康と数正の信頼関係は深まるばかりのように見えたのだが――。

ライバル秀吉との戦いの結果

それから時は下って、すでに天正10年(1582)6月に織田信長が本能寺にたおれ、信長の後継者として羽柴秀吉が勢力を急伸長させていたときの話。天正12年(1584)に、家康は信長の次男の信雄と連携して、急速に力を拡大する秀吉に対抗し、小牧・長久手の合戦を起こしていた。

その際、家康は長久手において鮮やかに勝利したものの、その後は大きな戦いがないまま一進一退を繰り返した。だが、そうしているかぎり、やはり圧倒的な兵力を有する秀吉のほうが優位になってくる。

自身の居城に圧力をかけられた信雄が秀吉に屈して和睦すると、家康も秀吉の求めに応じ、人質を出して和睦せざるをえなくなった。そして同年12月、家康は次男でのちの結城秀康を、石川数正は息子でのちの康勝を、同じく重臣の本多重次も息子でのちの成重を秀吉のもとに送った。

翌天正13年(1585)7月には、秀吉は関白に叙任。それでも、家康は秀吉に臣従まではしなかった。そんななか同年11月13日に、家康家臣団の要で徳川軍の最高司令官となっていた石川数正が、自身の妻子らを連れて、秀吉のもとに出奔してしまったのである。