フィリップ殿下が受けた屈辱、変わる家庭内関係

フィリップ殿下は、ギリシャ正教から英国教会に改宗し、ギリシャから英国に帰化して母方実家の姓である「マウントバッテン」を名乗り、海軍軍人として有望だったキャリアを諦めた。

結婚のためにそこまでしたのに、エリザベス女王が1952年に即位するやいなや、フィリップ殿下が女王に影響を与えることを警戒したのが、当時のチャーチル首相と王室の人々だった。王朝名となる女王の姓は「ウィンザー」のままとしただけでなく、ビクトリア女王の夫だったアルバート公とは異なり、国政に関与できる「王配殿下」の地位は与えず、戴冠式では妻へひざまずかせた。

のちに夫妻の子孫で殿下の称号がない者は「マウントバッテン・ウィンザー」の姓にする妥協は図られたが、結婚のときの前提を否定されたフィリップ殿下は怒り、女王は家庭内では夫の意向を普通以上に尊重せざるを得ないことになった。

父親からスパルタ教育を受けたチャールズ国王

子供の教育も、女王やその周辺は、上流階級の学校でトップ・エリートも通うイートン校(慶応普通部と麻布の中間といったイメージ)にしたかったが、フィリップ殿下は自分の母校であり、体罰と野外活動を基礎とした厳格な校風であるスコットランドの全寮制のゴードンストウン校に固執した。

この校風は、堅物でスポーツ万能、激しい負けじ魂の持ち主のフィリップ殿下には向いていたが、内向的でスポーツが得意でなかったチャールズ国王には向いておらず、人に心を開かず、母親の代わりになるようなタイプの女性に惹かれながら、結婚は「義務」としか考えない思考を形成したとされる。

チャールズ国王は自分自身が受けた教育への反省から、子供たちをイートン校に入れた。ウィリアム皇太子にとってはこれが良かったが、ヘンリー王子にとってはレベルが高すぎて苦労したと自分で言っている。

チャールズ国王(写真=The White House/Adam Schultz/PD-USGov-POTUS/Wikimedia Commons

卒業後、ウィリアム皇太子は、スコットランドの名門だがこじんまりとしたセント・アンドルーズ大学で学び、そこでキャサリン妃と出会った。2人はオープンに交際し、おきさき候補としては難しいとみられた時期もあったものの、彼女の努力が実を結んで評価も上がりご成婚となった。一方、勉強はいま一つだったヘンリー王子は陸軍士官学校へ進んだ。