船着場、泊地、そして運河維持のための複合施設だった

その構造物の位置と構造に多くの知恵と工夫があった。彼らは現代人より頭が良い。

1)交易のための船寄場と大溝 

この構造物は港である。楯築墳丘墓がある向山に遮蔽しゃへいされ、さらに南に微高地がある静穏な海で、多くの船が係留できる場所である。加茂遺跡など周囲に点々と微高地ができつつあった。加茂遺跡の地に住んでいた人々はこの港で働く集団であり、加茂遺跡は市場であったと考える。多くの船が寄せられるように長さ90メートルの突堤とってい(実際はもっと長いかもしれない)をつくった。

船着場、泊地、そして前述の「名無しの排水路」に続く大溝があった。私は、名無しは可哀そうであるので、この大溝を「吉備津大溝」と名付けたいと思う。隣接する微高地の加茂遺跡から鉄器、青銅器などが出土している。数百年間、山陰から日野川、高梁川経由で運ばれてきた鉄器などの高価な品々をさらに東に運ぶための、中継用の運河であったことを物語っている。足守川のこの構造物は、中継港であったことを指しているのではないか。

これは何を意味するか。100年前の造山古墳が造られた時代の交易ルートがここにあったのだ。運河の前面に吉備津神社があることでその重要性がわかる。すなわち、広大な穴の海の中で、海全体を支配する吉備津彦きびつひこが祀られているのである。

現在は水田になっている低地を見渡すように立つ吉備津神社。(写真=Reggaeman/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons
(2)堆積防止の導水路

構造物の位置と向きを考えてもらおう。江田山(227m)の尾根が迫り、この付近の潮の流れが速くなる場所である。日に2回訪れる引き潮の流れをさらに速くし、そこに土砂堆積が起きないよう漏斗ろうと状の構造物をつくり、泊地となる部分とそれから続く運河を維持したのである。

角度が曲がったり、杭の密度が違ったりしている。報告書に「北の部分においては洗掘と補修が繰り返されている」と書かれていることから、現場で浅い海(将来足守川になる水辺)のご機嫌を伺いながら試行錯誤で長い時間かけて、みおすじ(船が通る水路)の潮の満ち干にあわせてたえず水深を維持させてきた構造物であることが推察できる。