発見当時の専門家はなぜ「護岸」と思い込んだのか

現在でこそ、多くの河川の技術者は、この国の歴史が河川舟運で支えられてきたことを学んでいる。だが、この構造物が発見された、1980年代の専門家はどうであったか? 戦後の高度経済成長を支えてきた水力発電、工業用水などの河川の利用が最盛期で、防災面でもスーパー堤防などの議論が主流を占め。治水、利水全盛の時代であった。古代、モノが川で運ばれたという歴史はまったく脳裏にはなかった。

長野正孝『古代史のテクノロジー』(PHP新書)

当時の建設省で功成り名を遂げたある大先輩が「川は水を通す愚直な道具、浮かんでいるモノは船でも下駄でもゴミ」といっていた時代があった。縦割り行政で川と道路は建設省、港は運輸省、灌漑かんがいは農林省と専門性が高まり、総合的に見られなくなっていた時代であった。

すなわち、鉄や青銅器が山陰から船で運ばれた、造山古墳の石棺や膨大な土砂が船で運ばれたという考えは、諸先輩方は思いもつかなかった。専門外でやむを得なかったこともある。

だが、古代の穴の海を少し考えれば、海の中(一面泥の海)にポツンと護岸があることはあり得ない、そこは気付くべきである。

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