なぜ家康は負けるのがわかっていて出撃したのか

それにしても、なぜ家康は、負けることを承知で出撃したのだろうか。巷説では、同盟者の信長に対する義理だったとか、遠江の武将たちの離反を防ぐためだった、あるいは武士の意地だったという。

ここからは、あくまで私見である。

もし信玄が数カ月後に病没しなければ、この戦い如何によっては、徳川家自体が消滅した可能性があると考える。

実は「譜代」の家臣は極めて少なかった

徳川家臣団は、家康に忠節を尽くした武士の鑑であるかのように伝えられているが、それは大きな間違いだ。

そもそも譜代の数は極めて少なかった。なぜなら岡崎城主で家康の祖父・松平清康は、三河の国衆の一人に過ぎなかったからだ。

しかし清康はたぐいまれなる戦ぶりで20代の若さで三河一国を平らげるような勢いを見せた。が、それから5年後、家臣に謀殺される。嫡男・広忠はわずか10歳だったので、たちまちにして松平(のちの徳川)家は分裂、実権は親族の松平信定らに奪われている。

広忠は流浪のすえ駿河の今川義元の後援を得て三河を取り戻すが、このおり嫡男・家康を人質に入れたものの、24歳の若さで死没した。ために三河国は今川氏の支配下に組み込まれ、家康は義元が桶狭間で死ぬまで城主として岡崎城にいることを許されなかった。

そんな家康がようやく三河一国を平定したのは8年前、遠江国を制したのが3年前だ。だから、心から家康に忠誠を尽くしている家臣たちは、ほんの一握りだったのではなかろうか。

実際、今回の三方原合戦の前より、遠江の国衆の多くが武田に寝返り、本国三河からも裏切りが出はじめていた。また、三方原の戦いでの敗戦が確実になると、水野信元など多くの一族や譜代家臣が浜松城へ戻らず、そのまま他所へ遁走とんそうしてしまった。

徳川四天王の一人、榊原康政(画像=文化庁所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

また、何を思ったのか、家康より先に浜松城へ逃げ帰った家来が「上様ハ御打死おうちじに被成なされたる」(『三河物語』)と偽の情報を城中に触れ回り、味方を絶望のどん底に陥れている。

さらに岡崎城まで逃亡した山田正勝も、やはり岡崎にいた信康(家康の嫡男)に「大殿様(家康)ハ御打死を被成候」と言上している。しっかり主君の死を確かめもせず、なんとも情けない失態である。