ジャイアント・キリング=戦術面での名将
ジャイアント・キリングを達成した戦績、不利を覆して勝ったという勲章を持っている人が、戦術面での名将といわれるのでしょう。
戦国時代には、そうした名将が何人かいるわけです。
たとえば信長は、まさに「桶狭間の戦い」で、兵数の差をくつがえして勝利したとされる。ただ私は「桶狭間」の実態はまだまだわからない。もう少し考えなければならないと見ているのですが、少なくとも信長はこの戦いで不利を覆して勝った。
1対10の逆境をはねのけた北条氏康
また小田原北条家の3代目、北条氏康(1515―1571)は、「河越夜戦」と呼ばれる戦闘で勝利しています。
河越城という武蔵国で主要な城がありました。「この城をとるか、とらないか」が「武蔵を支配するか、しないか」に直結するくらい、当時、武蔵国の中心はこの河越城ということになっていました。
北条氏はその河越城を抑えていたのですが、そこを上杉の兵が包囲する。当時、上杉は本家の山内上杉。そして分家の扇谷上杉とふたつの家があったのですが、それらが力をあわせて包囲します。
北条氏康自身はこのとき、沼津のほうで今川義元と戦っていた。のちに北条と今川は、さらに武田を加えて三国同盟を結びますが、今川義元が家督を継いだ時点では、まだすごく仲が悪かった。両者は駿東地方という、今でいえば三島から沼津のあたりの領有をめぐって戦っていたのですが、そうするうちに河越城を囲まれてしまったわけです。
その知らせを聞いた北条氏康は、急いで今川義元との間に停戦協定を結ぶ。そして急いで河越に帰ってくる。少数の兵しかいない河越城を守っていたのは、「地黄八幡」といって黄色い甲冑で身を固めていたという北条綱成(1515―1587)。
どこまで本当かわかりませんが、北条家でも特に強い武将として伝説が残っている人で、この綱成が城を守っていた。
しかし兵力差でいうとそれこそ1対10くらいの状況で、いつ陥落しても不思議はない。
急いで戻った氏康は、城内の綱成と連絡をとっていっせいに夜襲をかけた。それで河越城を包囲していた上杉は完全に打ち破られてしまいます。扇谷上杉の当主だった上杉朝定(1525―1546)は戦死し、扇谷上杉はここで滅亡する。
いっぽうの北条氏康は河越城の救出に成功し、このあと北条氏の武蔵支配は確固たるものになる。この戦争を制した北条氏は、戦国大名として高く評価されるようになります。