元服名を与えられ、嫁も娶る
天文24年(1555)3月、竹千代は元服し「次郎三郎元信」を名乗ります。
「信」の字は、信光や信忠のように、松平家当主のなかで使用されてきた文字(通字=祖先から代々伝えてつける文字)です。
「元」の字は、今川義元から「元」の字を頂いたのです。「次郎三郎」というのは、父・広忠も、祖父・清康も使っていた称号であり、これまた松平家当主を表すものでした。
ちなみに、元信は、弘治4年(1558)頃には「蔵人佐元康」と改名しています。「元」の字は今川義元の「元」です。「康」の字は、祖父の清康の「康」をもらったと考えられています。
「徳川家康」という名乗りはまだ登場してこないが、「今川人質時代」の家康には、当然ではありますが、常に「松平家」(家と先祖)のことが頭にあったのでしょう。
さて、弘治3年(1557)正月、元信は結婚しています。お相手は、今川家の家臣である関口氏純の娘。後に築山殿と呼ばれることになる女性と結ばれたのです。関口氏は重臣であり、今川の一門でもありました。
このことから、松平元信も今回の婚姻によって、今川一門に准じる立場となったのです。これも、かなりの厚遇と見なければなりません。
松平家臣は不遇をかこったと言われているが…
厚遇を受ける元信と対照的であったのが、岡崎の松平家臣だったと言われています。
岡崎城には、今川氏から派遣された城代が居座り、思うがままに振る舞ったというのです。
例えば大久保忠教が記した『三河物語』には、松平家臣の苦難が次のように描かれます。「松平家の領地は全て今川家が奪った。よって、松平家臣は扶持米が支給されない状態となる。せめて、山中二千石の領地(松平家の本領)だけでも渡してほしい、そうでなければ、譜代の者は餓死してしまう、彼らに扶持をと頼んだが、ついに渡してくれることはなかった。だから、松平家臣たちは、自ら耕作して、年貢米を今川家に納めた。百姓と同じように鎌や鋤で妻子を養っていたのだ」と。
まさに悲惨そのものです。また次のような見解もあります。
「岡崎城には今川家から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)が入り、彼らによって松平の家臣たちは頤使され、逆らえば竹千代の身に危害の及ぶことを恐れ、ひたすら忍従に甘んじざるをえなかった」と(笠谷和比古『徳川家康』ミネルヴァ書房、2016年)。
このような悲惨な体験から、家康と家臣の間に強い絆が生まれたとされています。