この効果によって子は、人は信用していいものだし、気持ちは通じ合えるものなのだと、幼い頃に心へインプットすることができます。そうして刻まれた体感を土台にして、親以外の他人や社会との関係性を広げていくのです。かつ、この体感は加齢とともに安定性を増し、その内容は一生涯にわたって変わることがないとも指摘されています。
この社会で暮らしている圧倒的大多数の人々は「親と子の愛着関係」に恵まれてきました。だから、これを固く信じているでしょうし、疑う余地などないかもしれません。
私たちの心は、親子といえば愛着関係があるものなのだと規定されてしまっているとも言えるのです。ですから、専門家であろうがなかろうが、この「規定」に差はないのだろうと思います。
娘からの贈り物を「気持ち悪い」と捨てる母親
ここでひとつ例をあげます。
ある小学校に、虐待を受けている10歳の女の子がいました。その子から「お母さんに無視されているんだ」と聞いたスクールカウンセラーは、親子喧嘩が起きているのだと思い、「プレゼントを渡すといいよ」と助言しました。母の日が近かったのです。だいたいの母親は喜びつつも、娘の好意を思うときつい態度をとってしまったことに胸を痛めるでしょう。
その後、女の子と母親がどうなったのか気になったカウンセラーは様子を聞きました。しかし、予想に反して女の子は沈んだ顔をしています。助言通りにしたとのことですが、母親は「こんなのいらない」「機嫌をとろうとしていて気持ち悪いね」と言いながら、渡したプレゼントをその場で捨ててしまったとのことです。
一般的な角度からなされる「親とうまくやる」ための助言が、虐待を受けている子の家庭には通用しないことが少なくないのです。それどころか、かえって子供を傷付けることにもなり得ます。
児童虐待は、親と子の仲たがいや喧嘩とは明らかに異なっています。単なる親子喧嘩であれば、それは互いに譲歩できない部分があって膠着した関係が続いている状態です。だから解決は、互いに譲歩して「仲直り」することです。
「親子喧嘩」と「児童虐待」は本質的に異なる
ところが、残念ながら、先の例のような親子関係に仲直りはあり得ません。そして、子が親の愛情を欲する気持ちや、子が親に歩み寄ろうとしている姿勢が親に伝わることもありません。「共感」と「推察」の能力は、持って生まれた気質的な問題によって限界があることが少なくないからです。無視をするのは興味も関心も持つことができないからで、厳しく接するのは単純に世話が面倒で虐げているだけです。
こういった内実があるのですが、被虐待児への支援は「子供と親がその相互の肯定的なつながりを主体的に回復すること」(注)が基本になっています。そうした働きかけを安易に行うことによって、子側だけでなく親側にも予期せぬストレスをかけることがあります。その結果、虐待が悪化したり親子関係が不安定になったりすることもあります。親の能力以上のことを「させようと」しているからです。
(注)厚生労働省 親子関係再構築支援ワーキンググループによる「社会的養護関係施設における親子関係再構築支援ガイドライン」
親子関係の問題の理解や解決は、あくまでも虐待を受けてきたことのない人たちの視線から考えられていることがほとんどなのです。
こうした定型的な支援に当てはめられたがために、結果的に親側が混乱してしまい、子側にストレスの矛先が向くという、言わば「支援の後遺症」に苦しんだ女性もいます(注)。
(注)『ルポ 虐待サバイバー』第6章で詳述
彼女は幼少期に虐待を受けていました。支援者が介入しましたが、介入したがゆえに虐待が悪化してしまいました。大人になってから精神科に通い、過去の母親のことをカウンセラーに相談すると、「お母さんもつらかったはず」と言われてしまいました。母親の味方をされているように感じた彼女は、通院をやめてしまいました。