繰り返しになりますが、私たちは「親であれば、自分の子に無関心のはずがない」と信じています。親との間に愛着関係があり、そのうえに内的作業モデルが完成したからです。そんな私たちが考え出して用いている虐待理解や対応は、親と子の愛着関係が不成立であることによって起きている場合にはフィットしないことが数多くあるのだと思います。
つらい子育ての背景には「我慢」がある
最後に、ひとつだけ付け加えておきます。
親側に大きな「我慢」があると、子育てに混乱を与えることがあるのも忘れてはなりません。
我慢が大きいと、自分の子供のわがままや甘えを拒否したり拒絶したりしてしまうことがあります。これは親自身が我慢しているがゆえに子のわがままや甘えを許せなくなる心理で、孤立と緊張が伴う育児を余儀なくされている状況に原因があります。その親に呼応するように子の我慢や緊張が強い場合も多く、子が幼稚園や小中学校で問題を起こすこともあります。集団行動になじめなかったり反応が鈍かったりして、発達障害に見誤られることも少なくありません。
学校からの呼び出しがかかるなどして子の問題を解決していかなければならなくなり、ますます育児の負担が重くなることもあります。
こうした事情から子育てが切迫しているので、子への態度が厳しく映り、表面上は虐待のように見えることもあります。しかし、深く話を聞くと「共感」「推察」の能力が乏しいことによって起こる虐待とは異なり、一線を画していることがわかります。
かつ、親と子の間には多少の緊張があるものの愛着関係には問題がないことも少なくありません。その場合は、子育て支援と深いカウンセリングによって、子供と豊かな愛着関係を築いていくことは十分に可能です。
特にカウンセリングの中で育児の苦労や子供への気持ちなどを語り、深いレベルで悩みが言語化できるようになると、親側の緊張が軽くなるのと並行して子との関係にも変化が表れます。そして、やがて子の問題は消失していきます。
よくがんばって育児をしていることを関係者が十分に理解するだけでも、親子共にかなりの改善が見られます。
「寄り添う」ことと「理解する」ことは違う
私が日々のカウンセリングの中で貫いているテーマは、「“寄り添うこと”と“理解すること”は違う」というものです。正確な理解なしに寄り添ったところで、それは単に善意の押し売りになってしまうのです。
勉強と経験を積んでいけば知識は増えていくかもしれません。しかし、痛みは感じたことのある人にしかわかりません。彼ら被虐待者と深く関わっていくと、大切なものはいつも私の理解の範囲外にあるのだと気付かされます。そして、感じたことがない彼らの痛みを理解できるように自分の解釈へと曲解していることもわかります。
こうした自分の限界を知って「理解できていなかった」ことを少しだけ理解できるようになって、ようやくカウンセラーとしてスタートラインに立てたような気がします。
虐待問題に対しては、法律や福祉制度が見直され、直近では「こども家庭庁」の創設も進んでいます。しかし最後に見直すべきなのは、私たちの「親子概念」なのかもしれません。