虐待の背景には必ず親の「一方性」「無関心性」がある

その最たる要因は、親側が「共感」や「推察」といった能力が欠如しているか著しく乏しいという精神科領域の課題を抱えているためです。子供が怖がろうが、痛がろうが、苦しもうが、関心を寄せずにいられるのです。そして、その後にどんな傷を心身に残すのかを考える力も弱いので、通常では起こり得ないような事件や事故につながることもあります。

幼児が両足を骨折していることに長期間気付かなかったり、車の座席に放置したまま飲み歩いていたりという出来事の背景には、親側の「一方性」と「無関心性」が必ず存在しているのです。

ゆえに子との愛着関係を築くことは、かなり難しいのです。

無理に親子の接点を増やすと虐待が悪化することもある

まとめると、

①児童虐待には親側の発達障害(特に“軽度”知的能力障害)が関係している場合があり
②本人の努力やがんばりによって「改善」できる問題でもなく
③かつ、支援者からの「働きかけ」で余計に虐待が悪化することもある

という厳しい現実が、こうした悲惨な児童虐待の多くにあるのです(注)。子育て支援やカウンセリングで子との愛着関係を促進するのは困難で、代わりに子との接点を減らしていく環境調整が有効です。

(注)『ルポ 虐待サバイバー』第5章で詳述

ところが実際には、親と子の接点を増やし、愛着関係が促進されることが解決であると思われている節もあります。実は、私が最もお伝えしたかったのは、これによる“実害”が意外にも少なくないということです。

私たちは暗黙に、親は無条件に子のことを愛すものだと思ってしまっているようです。これは、次の理屈によって説明することが可能です。

なぜ子は親を信用するようになるのか

私たちには「内的作業モデル」というものがあります。簡単に説明すると、「人間関係のひな型」のようなものです。

親と豊かな愛着関係を築けた人は、親(人)を信頼するところから人生を始めることができました。おむつが汚れて不快で泣いていても、空腹でミルクが欲しくて泣いていても、親が世話をしてくれました。2〜3歳になって自分の足で歩けるようになり、行動範囲も広がりました。自分の意思でやりたいことがいっぱいです。

叱られることもありましたが、褒められることもありました。そこにはきちんとした親の養育態度の一貫性があるので、子の側からすると、どんなときに叱られ、褒められるのかを理解することができます。ですから、子は親のことが怖くありません。こういった親の元に生まれた子供の、「親が自分のことを嫌いになることはない」「決して見捨てることはない」という確たる信念には、いつも驚かされます。

親も子を理解し、子も親を理解する。そして相互の情緒的な交流がある。以上が愛着関係の本質です。