「他人と同じであれば安心」という思考はあまりに幼稚

「誰か」と似た言葉に「みんな」がある。小学生はいつの時代も、親に「みんなNintendo Switchを持っているから、僕にも買って!」なんてことを言うものだ。そこで親が「みんなって誰?」と問えば、「山口君と田中君と近藤君……多分クラスで10人くらい」と子供はトーンダウンし、「みんな」と言えるほどの所有率ではないことが明らかになる。親は「別にみんなが持っているわけじゃないでしょ」「ウチは山口君の家じゃない。イヤなら、山口君の家の子になればいい」と返す。まあ、お約束の展開だ。

この「みんなガー!」という発言の背後には「うらやましい」「自分も当事者になりたい」といった感情のほか、「他人と一緒であることこそ至高」という考え方も隠されていることが多い。未熟な子供であれば周囲に過度に流されてしまうのもやむを得ないといえるが、そうした感性を大人になっても抱えているとしたら、あまりに幼稚ではないか。

「誰か」という謎のパワーワードに引きずられて自主性、主体性を失い、多少の疑問や違和感があっても、なんとなく周囲に合わせて動いてしまう。実に情けない話だ。もはや日本人の8割は本気でマスクの効果など信じていないだろうし、4回目のワクチン接種率の低さを考えても、公言しないだけでワクチンをこれ以上打つ気がない人がマジョリティになりつつある、と私は捉えている。

写真=iStock.com/Albina Gavrilovic
※写真はイメージです

「誰か」のために生きて、人生が毀損されるリスク

マスクとワクチンについて言えば、最終的には多くの人が「結局、あれってなんだったのだろう」「意味なんてあったのか?」という懐疑的な感情に至ると思っている。そう、海外の国の多くが2022年初頭にこの結論へとたどり着いたように。そして「誰か」のために行動した結果、どれだけ自分が苦痛だったか、人生が毀損きそんされたか、面倒くさかったか……という自分本位な感情に行きつくはずだ。

マスクに猛烈に反対した人は、最初はシンプルに「長時間マスクを着けるのが苦痛だった」だけともいえる。とはいえ、意味のある我慢であれば、仕方なく我慢することもしただろう。私ですらコロナ騒動の初期には、求められる場面であればマスクを着用していた。

しかし、時間の経過とともに各種データが明らかにされ、マスクの効果に疑問符が付くようになった。だから「これ、意味あるの?」と臆することなく主張した。すると「自分勝手」「異常者」「非常識」「人殺し」扱いされるようになった。大多数より先んじて「我慢しても無意味」「自分の人生を毀損されたくない」「理不尽な苦痛を強いられたくない」と主張しただけなのに、まるで犯罪者のごとく扱われることになるとは。