家康と秀吉が不在の「絶妙の瞬間」
五月廿九日、信長公御上洛。(中略)御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り候て、御一左右次第、罷り立つべきの旨、御触れにて、今度は、御伴これなし。さる程に、不慮の題目出来候て、(『信長公記』)
しかし、信長を討つ、その後をどうするのか。
このクーデターは、天下の者が広く歓迎するはずであるが、しかし、信長政権内には、断じて光秀の行為を許さぬという対立者がいるだろう。
クーデター決行に際して、光秀がもっとも怖れねばならぬ者は誰か。第一が反クーデター勢力を結集するかもしれぬ信長の嫡子信忠であり、第二が信長に次ぐ位置を獲得しつつある家康であり、第三が大国毛利を制圧しつつあるところの秀吉である。
しかるに、いま、信忠は信長と共に京都に在り、家康は大坂・堺を見物中、秀吉は毛利の大軍との決戦前夜に在る。
絶妙の瞬間である。「ときは今」とは、そういう意味であろう。
光秀が、信長討つと同時に決行しなければならぬのが、この三者の打倒である。信長の名目上の継承者としての信忠、これは京都にいるから容易に討てる。次いで家康、この東国の将と兵にいくらか得体のしれぬ不気味なものを光秀は感じていたろうが、彼はいま自己の勢力圏内を周遊中である。
「配下随一の武将」という光秀の自負
討つ。仮に逃走したとしても、東国の軍は即座には京都へ侵攻してこないであろう。信長死す、と聞けば、北条が家康と葛藤を開始するだろう。そして秀吉、本能寺の変を聞けば、毛利がいっせいに反攻を始めるだろう、混乱する秀吉軍の背後を衝けば、打倒は可能である、と。
光秀の武略がある。
京都を中心に、丹波、近江、山城を制圧してしまえば、日本の神経中枢を抑えるとともに、信長軍勢力を各個に分断できる。
そして私の推定であるが、二年前「日向守が働き、天下の面目をほどこし候」と信長から賞賛された光秀、信長麾下随一の驍将であるところの光秀は、自分に等しい実力を持つ者としては、ただ家康、秀吉の二人しか認めなかったに違いない。
なるほど、柴田勝家や滝川一益も強剛ではあるが、武略において自分の方が上であり、またこの二者に、時代回転の歯車の回せるわけがない。クーデターが成功すれば、日ならずして、この二者とは不即不離の関係というか、敵意を秘めた共存状態に入ることも可能だ、と光秀は考えたろう。
どだい、勝家の当面の敵手上杉が、滝川への潜在的な敵手である武田残党・上杉・北条が、この二者の軍を容易には動かさせないであろう。天の時は我に利ありだ、と。