関ヶ原の戦いにはイデオロギーの対立があった
こうした国家の荒廃をいかに立てなおすか、それが、家康と石田三成に与えられた課題でした。豊臣政権の奉行、つまり実務官僚であった三成は、朝鮮出兵には失敗したけれども、秀吉が掲げた重商主義・中央集権体制は維持していくという立場でした。これに対し家康は、小田原北条(後北条)氏の滅亡後、関東に移封されて関八州の再建を成功させたという実績がありました。そのとき家康が取った政策は、農本主義・地方分権政策だったのです。この方法を日本全国に広げることで日本を再建しようというのが、家康の考え方だったわけです。
つまり、関ヶ原の戦いにいたる三成と家康の対立は、従来の政策を維持するか、国制を大きく転換して室町幕府時代と同じ体制に戻すかという路線対立だと見ることができると思います。そして、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、のちに幕藩体制と呼ばれる国家体制を作ることになります。
家康は産業の持つエネルギーを抑え込むべきだと考えた
家康は、農本主義と地方分権を徹底させ、さらに身分制度を固定化します。ちなみに「士農工商」と呼ばれる身分制度は、あくまでも観念的なもので、実態としては支配層である「武士」、村に住む「百姓=農民」、町に住む「町民」という、職能と居住地に応じた分化だったと考えるのが、現在の歴史学では主流のようです。
なぜ身分を固定化させ、国民を制約のもとに置いたのか。それは商業や流通という産業の持つ強大なエネルギーを抑え込まないと、重商主義の時代に逆戻りしてしまうと考えたからです。商業と流通とは貧富の差を拡大させます。それは現代の情報流通革命を例に挙げれば理解できるでしょう。IT産業やAI開発事業は莫大な利益を上げますが、富が一部の人々に集まります。農業は食料自給や国土保全の観点からは重要ですが、商業のように大きな富にはつながりません。
家康の時代でも、農業を産業の基本とする限りにおいては、貧富の差はそれほど生じなかったはずです。家康が農本主義を取ったのは、貧富の差を是正し、誰もが食べられる世の中を作るためだったのです。そして、地方分権の目的は、国土の均等な発展だったと思います。
江戸時代の各藩の政治システムを見るとよく分かるのですが、石高わずかー万石の小藩でも、百万石の加賀藩でも、藩主以下に家老がいて、藩士がいる。そして藩校があり藩医がいるといった、基本的には同じシステムが取られています。それは、幕府が全国三百藩の均等な発展を図っていたからです。