飢えのない世を作ろうとした政治的なリアリスト

戦国時代には、飢えに苦しむ人が山ほどいました。それが家康が生きた時代の現実です。その人たちを、どうやって食べさせるのか。その責任は誰が持つのか。それを明確化していった結果、家康は農本主義と地方分権に向かうのが最適解であると、考えたのだと思います。

「厭離穢土 欣求浄土」に込められた浄土教思想は、本来は他力本願です。自らは阿弥陀仏の名を唱えるだけで極楽往生ができるというのが、その特徴です。難しいお経を覚えたり厳しい修行をしたりしなくても、極楽往生できる。これを「易行」と言います。

しかし家康は、極楽往生の結果、行くことができる浄土を、いまこの世に現出せしめる。この世を誰もが食べて行ける浄土にしようと思った。そのために戦い続けるという選択をし、勝った末に浄土を実現しようとした。

一向一揆は、自分たちが掲げる旗に「進者往生極楽 退者無間地獄」、つまり「進まば極楽、退かば地獄」といったスローガンを掲げていましたが、家康はもっと政治的なリアリストでした。「死ねば極楽に行けるのだから、現世の苦しみを忘れよう」では、飢えている人々の精神の救済にはなるかもしれませんが、命を救うことはできないからです。

そう考えると、家康がその生涯をかけて取り組んださまざまなことの意味が、非常にクリアに見えてくるのです。

「人の一生は急ぐべからず」と語った本当の意味

整理すると、農本主義によって貧富の差を解消し、地方分権によって国土の均等発展を目指すことが家康の国家方針であり、それこそが浄土を目指す意味だったと、私は理解しています。

しかし、それはそう簡単なことではありません。家康にとっては終生の目標であったでしょう。それがどれだけ遠い道のりであるかを家康は理解していたはずです。

そう考えると、家康が自らの政治思想や理想を語り残したものとして知られる「東照宮御遺訓」で、「人の一生は重荷を負ひて遠き道をゆくが如し、急ぐべからず」と語った意味も、よく理解できます。それはそれは長い道のりだったでしょうし、急いだところでどうなるものでもない。

よく家康の人生は、忍耐の人生と言われます。家康は浄土がそう簡単に作れるとは思っていません。だから長期にわたるビジョンを持っていたし、人生の目標を遠くに置いていた。家康がさまざまな苦難に耐えることができた理由は、まさにそこにあるのだと思います。