「厭離穢土 欣求浄土」の旗印を掲げたのはいつか

ちなみに、「厭離穢土 欣求浄土」の旗印を家康が掲げるようになった時期はいつでしょうか。私は、三方ヶ原の戦い(編集部注:1573年に織田信長・徳川家康連合軍と武田信玄が戦った)の直前だった気がしています。研究者の方には、もう少し遅い時期だったとおっしゃる方もおられますが、その時期の史料に「厭離穢土 欣求浄土」の旗印についての記述が見られたとしても、実際に旗印を掲げはじめた時期はそれよりさかのぼると考えるほうが自然です。

歌川芳虎画「元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図」
歌川芳虎画「元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図」(写真=早稲田大学演劇博物館所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

三方ヶ原の戦いのとき、家康は強大な武田軍を前に追い詰められていました。人生最大の危機と言っていいでしょう。追い詰められていたからこそ、自分の思想や理想を純化していったのではないか。家康の危機は、家臣たちの危機でもありました。この旗印を掲げることで、家康は自らを鼓舞し、家臣たちを奮い立たせたのだと、私は考えています。

300年の「パックス・トクガワーナ」を実現した家康の理想

グローバルな世界情勢の苛烈な荒波のなかにあった戦国時代。そんな時代に覇者となった家康は、グローバリズムから距離をとり「徳川の平和」を作りだした。

だとするといまこそ、「家康はなぜ乱世の覇者となれたのか」を知ることが重要なのではないか。それを成し遂げたのは、「厭離穢土 欣求浄土」という家康の夢があってこそでした。