姫路城は23円50銭で落札された

だから、じつは、いまではユネスコの世界文化遺産にも登録されている姫路城とて例外ではなかった。

大阪鎮台の歩兵第十連隊が駐屯することになると、三の丸にひしめくように立っていた御殿はみな取り壊され、大手門や、その周囲の複数の櫓も競売にかけられた。

それだけではない。あの美しい天守でさえ、存城と決まった後に、維持が大変だという理由で競売にかけられ、姫路市内の金物商の神戸清一郎という人物が、わずか23円50銭で落札している。これはいまの貨幣価値に換算すると、10万円から20万円程度のようだ。繰り返すが、のちの世界遺産を、冷蔵庫程度の値段で売り払っていたのである。

姫路城(写真=Ninja jp/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

ただ、姫路城は江戸時代から名立たる名城だったこともあり、明治10年(1877)、陸軍で姫路城を管理する工兵第四方面提理代理だった飛鳥井雅古少佐が、陸軍卿代理の西郷従道に修理を要請。

翌年には陸軍省第四局長代理の中村重遠大佐が、山縣有朋陸軍卿に、姫路城と名古屋城について修理保存の建白書を提出。

それらが受理されて、かろうじて姫路城と名古屋城は、主要部分が残されることになったのだ。

天皇に直訴した大隈重信

それ以外の城が残ったのは、それぞれが偶然に、としかいいようがない。たとえば、天守が国宝に指定されている彦根城も、「存城」にはなっていたものの、明治11年(1878)9月に解体が決まり、10月には解体用の足場まで掛けられている。

ところが、そこに運命のめぐり合わせがあった。北陸巡幸を終えて京都に向かっていた明治天皇が10月11日、彦根の近郊に宿泊した。その翌日、天皇に随行していた大隈重信が彦根城に立ち寄り、城が解体されるのを知って惜しいと思い、天皇に「保存すべきだ」と奏上。それに天皇が同意して保存が決まったのだ。

大隈重信[出典=歴代首相等写真(憲政資料室収集文書)、国立国会図書館

たまたま天皇がそのタイミングで彦根城の近くに宿泊することがなければ、彦根城は国宝になる前に失われていた可能性が高いのである。

また、いまは国宝の松本城も、廃城と決まる前年の明治5年(1872)には天守以下の建物が競売にかけられ、民間の所有になってしまっていた。これに驚いたのが、その当時、城下の下横田地区の副戸長だった市川量造で、みずから創刊した「信飛新聞」で松本城の落札を報じるとともに、「松本城は博覧館として活用すべきだ」と主張した。

そして、量造は松本城を博覧会の会場として活用し、その収益で天守を買い戻すことを計画。当時の筑摩県に、松本城の10年間の破却延期と旧本丸の貸与を認めさせ、明治6年11月に第1回博覧会を実現。それが成功し、松本城天守は晴れて買い戻されたのだ。