福沢諭吉が死去したのは1901年(明治34年)のこと。当時、東京都内では火葬と土葬が入り混じっており、諭吉も土葬された。ところが76年後、当初埋葬された寺が福沢家の宗旨と違ったため、お墓の引っ越しをすることに。掘り返してみると、地下4mの地点に白骨化することなく遺体が原形を保った諭吉が着物を着て寝ていたという。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳さんが戦前までは都内でも普通に土葬が行われていた歴史を紐解く――。
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1977年に「福沢諭吉がミイラになって現わる」

前回の本連載では九州におけるムスリム(イスラム教徒)の土葬墓を取り上げ、各方面から反響をいただいた。その多くが「郷に入れば郷に従って、火葬を受け入れるべきだ」「多くの日本人にとって土葬墓は忌み地であり、近隣の土地は瑕疵物件となる」などと、土葬について批判的なものであった。しかし、東京都心部でも戦前までは普通に土葬が行われ、今でも生身の肉体が埋まっている墓地も少なくない。本稿では、かの福沢諭吉の驚くべき土葬の様子を紹介しよう。

福沢諭吉がミイラになって現わる——。

今から45年前(1977=昭和52年)。慶應義塾大学の関係者らは、にわかに信じ難いニュースに色めきたった。ミイラが発見された場所は慶應義塾大学(港区三田)からもさほど離れていない、品川区上大崎の常光寺だった。この時点で、偉人の死から数えて76年が経過。諭吉は葬儀直後に土葬されており、普通ならば土に還っているはず。なのに、なぜかミイラとなって現代に現れたという。

ひとまず諭吉の死の時点まで遡ってみる。

福沢諭吉は1901年(明治34年)2月3日に脳出血が原因で死去したと伝えられている。享年68だった。葬儀は2月8日、福沢家の菩提寺である麻布十番の善福寺(浄土真宗本願寺派)で執り行われた。

通常、「葬儀」と「埋葬」が切り離されて、別々の寺で行われることはない。しかし、諭吉は生前、散歩の際、常光寺周辺の眺望が良かったことから、「死んだらここに」と、常光寺の墓地を手に入れていた。常光寺は善福寺からは約2.5km離れている。

最近では、寺檀関係が煩わしいと考える人は、「好きな場所」に「好きな埋葬法」を求めるケースが増えているが、地縁・血縁がしっかりと根付いていた明治期に、自由気ままに墓を求めたのはかなり珍しいケースではなかっただろうか。こうしたことからも、諭吉がなかなかの自由人であったことが読み取れる。