明治末期、都内では火葬と土葬が入り混じっていた
明治末期、東京都内では火葬と土葬が同じくらいの割合だったようだ。土葬の場合、最初に墓に入る故人はなるべく地中深くに埋葬され、そしてその後に亡くなった配偶者や子供らの遺体を上に、上にと重ねていく。
土に埋められた遺体は1、2年も経過すれば白骨化し、その骨もやがては土に還る。土饅頭型(土を丸く盛り上げて作った墓)の墳墓の場合、盛られた土が次第に下がっていくことで白骨化したことが分かる。土葬は、執着を嫌う仏教の考え方に適った埋葬法といえる。
諭吉は常光寺の地下で、76年間の永い眠りにつくことになった。ところが、自分の好きな場所に墓を求めたことが諭吉の死後、思いもよらない混乱を引き起こす。
先に述べたように福沢家の宗旨は浄土真宗であった。ところが埋葬された寺は浄土宗だ。両宗は同じ浄土系とはいえ、経や教義、仏事の作法などが異なる。戒名の付け方も異なる。他宗の寺同士が仏事で連携し合うということも、よほどの例外を除いてはあり得ない。
福沢家の場合、法事の際、どちらの寺が取り仕切るのかというような寺同士の問題が生じることになる。浄土真宗の僧侶が、浄土宗の寺の敷地で経を上げるという、ちぐはぐなことにもなりかねない。
また、親族にとってみれば墓参りの場所が複数にまたがるという面倒が生じる。将来的には、諭吉の子供や孫達の、埋葬場所はどうするか、など、ややこしい話が次から次へと出てくる可能性がある。
諭吉は、欧米文化を日本に広め、近代日本の礎を気付いた人物で、慶應義塾をひらいた明治期を代表する偉人だ。常光寺にしてみれば、「墓所を提供した」に過ぎなかったが、諭吉の墓ができたことで、慶應義塾大学を目指す受験生やその親が合格祈願に訪れる「受験の聖地」になってしまった。学生や大学関係者が毎年、墓参りに訪れ、寺は大いに賑わうことになった。常光寺が本堂を建てる際には、慶應義塾大学による寄付の恩恵にも預かった。