言葉なしに世界は現象しない
一般に、まず世界があって言語はそれを分別するための装置、記号のようなものとされている。だが、事態はむしろ逆であって、そもそも言葉なしに世界は現象しない。私達が現実世界に向かい合うことはない。
もちろん目や耳や鼻や舌や、皮膚などの体性感覚器によって、まずは全体的な「存在」が感じ取られる。だが、それが何であるか、何でないかを分けて知るためには言語が必要だ。言葉によって名付けられることで、名付けられない巨大な塊のような原‒世界が分節され、事分けられ、諸々の個物から成る秩序立った現‒世界が展開するようになる。
喩えるならば、私達の生きている現実世界は天地四方をタイル貼りによってすっかり囲まれているようなものだ。タイルの一枚一枚が言葉に当たる。その一つ一つが小さくなり、数が増えれば、タイルが作り出す網目(認識格子)は精細化し、世界像の分解能が増す。事物の多様性が言葉の多様性をもたらすのではなく、言葉の多様性が事物の多様性をもたらすのだ。
もちろん異なる言語を話したり、書いたりしていても、その者達の世界像が根本から違っているわけではない。言語の違いによって思考(とくに論理的思考)に大差が生じることはない。
語彙の豊富さは世界の豊かさを表す
これは、例えば『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(椋田直子訳 ハヤカワ文庫)の著者、ガイ・ドイッチャーも認めるところだ。彼は「言語が世界をさまざまな概念に切り分けられるやり方が、自然によってのみ決定されたのではない」が、同時に「それぞれの言語が気の向くままに、恣意的に切り分けられるものでないことはいうまでもない」とする。〈然るに〉「コミュニケーションを成立させるために学習することが可能で、筋道もたつという制約内ではあっても、ごく単純な概念であってさえ切り分けるやり方はさまざまあり、その多様さは常識が予想する範囲をはるかに超えている」という。
◎しかるに【然るに】ところが。そうであるのに。それにもかかわらず。それなのに。
このように考えるならば、「ボキャ富」になること、語彙をできるだけ増やすことの決定的な重要性は明らかとなる。どれだけ多くの言葉を使いこなせるかが、その人の認識や感覚の細やかさ、思考の分明さや複雑さ――総じて生きてある世界の豊かさを表すからだ。使っている語彙の質によって、その人が、どんな世界と向き合い、いかに世界を味わい、いかなる世界で思惟しているかを窺い知ることができるからだ。