「ボキャ富」のメリット
だが「ボキャ富」になる効用は、古い文章を滞りなく、円滑に読めるようになるに留まらない。
そもそも言葉とは何か。例えば名詞は、諸々の事物に与えられた単なる名前なのだろうか。諸々の事物とは、言語によって個別の名詞が割り振られる前に、それぞれ独立した(かにみえる)事象として存在していたのだろうか。
例えば「イス」は、「イス」という名を与えられる前には存在したか。もし「イス」と〈命ずる〉以前に「イス」が存在しなかったとしたら、われわれの眼前にある世界は、〈詮ずる〉ところ、言語の集まりに過ぎないとすらいえるのではないか。
●めいずる【命ずる】(ここでは)名をつける。名づける。命名する。
●せんずる【詮ずる】つきつめて考える。筋道を追って熟考してみる。「詮ずる所、生は死に向かう過程である」
※「詮ずる所」は「所詮」の訓読語である。
言語哲学者の井筒俊彦は、このような言葉の捉え方(井筒はこれを「分節理論」と呼んでいる)を次のように噛み砕いて説いている。少し長くなるが引いておこう。
※「分節」とは聞き慣れない単語だろうと思うが、英語のアーティキュレーション“articulation”の訳語である。しかし、和英いずれの単語も辞書的定義によっては、ここでの意味、用法の理解には及ぶまい。現代思想における独特の使い方だからだ。それはこの直後に引用される井筒の文章で明らかになるが、予め意義を示しておくと「言語によって一連の事物事象に節目(切れ目)を入れ、分けて知ること」。分けて知られることで事物ははじめて個物として認識できるようになる。
もともと素朴実在論的性格をもつ常識的な考え方によると、先ずものがある、様々な事物事象が始めから区分けされて存在している、それをコトバが後から追いかけていく、ということになるのだが、分節理論はそれとは逆に、始めにはなんの区分けもない、ただあるものは渾沌としてどこにも本当の境界のない原体験のカオスだけ、と考える。のっぺりと、どこにも節目のないその感覚の原初的素材を、コトバの意味の網目構造によって深く染め分けられた人間の意識が、ごく自然に区切り、節をつけていく。そして、それらの区切りの一つ一つが、「名」によって固定され、存在の有意味的凝結点となり、あたかも始めから自立自存していたものであるかのごとく、人間意識の向う側に客観性を帯びて現象する。たんにものばかりではなく、いろいろなものの複雑な多層的相互連関の仕方まで、すべてその背後にひそむ意味と意味連関構造によって根本的に規定される。(井筒『意味の深みへ』岩波文庫)