永田町や霞が関では「愛用」されていた言葉だった

私が愛用していた頃は、読者から「これは『フド』と読むのですか」などとよく訊かれたものだ。「付」や「符」など「フ」と音読みする文字と構成部分(「寸」)が同じなのでこう誤読されがちだったが、永田町や霞が関では、〈専ら〉「立場が下の人(例えば官僚)が立場の上の人(例えば閣僚や大物議員)の意向や都合を予め汲み取り、それに沿うように行動する」の義で通用していた。この官僚の〈矜恃〉を傷つける「忖度」なる行為を、彼らは〈自嘲〉ぎみの〈口吻〉で語るのが常であった。

◎もっぱら【専ら】ひたすら。まったく。ただただ。その事ばかり。「夕食後は、もっぱらゲームをして遊ぶ」「その新興宗教は、専ら現世利益をうたっていた」「世間では、パンダの妊娠が専らの話題だ」

◎きょうじ【矜恃/矜持】自分の能力についての自信。プライド。自己の優秀さを誇ること。自負心。

◎じちょう【自嘲】自分自身を見下し、あざけって笑うこと。「所詮公務員で、宮仕えの身ですから……と俺は自嘲した」

◎こうふん【口吻】原意は口先、口元。転じて、くちぶり。言いぶり。ものの言いよう。「彼の口吻のなかにひそむ傲慢な響きを聞き取った」「口吻を漏らす(=心中が察せられるような言振りをする)」

《イプセン畏るるに足らずというような口吻を漏している》(岸田國士『近代劇論』)

この隠語的ともいえそうな語釈が、報道によって〈忽然〉と一般化したのだからたまらない。しかも政治家や官僚の振舞を、批判ないし揶揄する文脈において好んで用いられたため、これ以降、非常に使い辛くなってしまった。

◎こつぜん【忽然】変化が急なさま。にわかに出現したり消滅したりするさま。たちまち。「一つの街が忽然と消え失せたのである」「彼は忽然と姿を現した」

語彙が乏しいと60年前の文章すらきちんと理解できない

念のため、青空文庫から「忖度」の文例を数点引いておく。

《文三の感情、思想を忖度し得ないのも勿論の事では有るが……》(二葉亭四迷『浮雲』)

《私は、彼の言葉をそのままに聞いているだけで彼の胸のうちをべつだん何も忖度してはいないのだ》(太宰治『ダス・ゲマイネ』)

《批評家の忖度する作家の意図に対して、作家の側から挑戦するというような意味ではない》(坂口安吾『戯作者文学論 平野謙へ・手紙に代えて』)

《君子の胸臆は小人の忖度する能わざる所、英雄の心事また凡人の測知し難き分ならずや》(津田左右吉『仏教史家に一言す』)

最後の津田左右吉の引文は「徳の高い人(=君子)の胸中(=〈胸臆〉)を、そこらの小人物(=小人)が推し量ることはできないが、英雄の深い思惑(=〈心事〉)もまた、凡人の察知(=測知)し難いところではないか」という意味だ。

面白い、使い勝手のよい言葉がみえるので抽出しておこう。

◎きょうおく【胸臆】心。胸中の思い。「胸臆を行う(=思うことを思うまま行う)」

◎しんじ【心事】心中に思う事。「心事を推す」「心事を察する」「心事に背く」「心事を疑う」「心事は測り難い」

こうした語彙をもし知らなければ、わずか60年ほど前に死没した思想史家の文章すらスラスラ読めないことになる。明治期、大正期の文学者、思想家、随想家の文章の多くは読解不能だろう。それどころか、例えば第二次世界大戦期の新聞記事ですら、つかえることなく読めるかどうか怪しい。