残された愛馬と大量の血に「戦死疑いなし」
そのときだろうか。有栄は赤崎丹後とめぐり合った。赤崎は先ほど押し出すとき、逸る豊久に忠告した人物。義弘の家来で、岩屋城の戦いや朝鮮陣で勇名をはせた。伏見城攻めでも背中に古莚を指物にして戦った。大垣城で石田三成が陣中見舞いにやってきたとき、義弘が赤崎を「この者は国許で武辺に秀でております」と紹介すると、三成が「随分と働き、討死するがよい」と励ましたという(『本藩人物誌』)。
二人がめぐり合ったのは関ヶ原宿口あたりという。すると、豊久の乗馬とおぼしき馬がやってきた。主人は乗っていない。二人が豊久の愛馬に間違いないと近づくと、鞍つぼに大量の血が残っていた。二人は「さては中務殿(豊久)戦死疑いなし」と直感した。このうえは、かようなものを見ながら、退くのもどうかと申し合わせ、二人で取って返し敵中に切り入った(「雑抄」)。
豊久はどこで最期を迎えたのか
豊久は関ヶ原盆地から南に抜ける伊勢街道沿いの烏頭坂で討死したというのが通説で、同坂の脇には豊久の供養碑も建立されている。また一説によれば、豊久は重傷を負って上石津の柏木村あたりで息絶え、近くの瑠璃光寺(現・岐阜県大垣市上石津町上多良)に埋葬され、「島津塚」と呼ばれたと伝承されている(『倭文麻環』上)。同寺には豊久のものとされる墓や位牌が現存している。
しかし、先に見たように、山田有栄と赤崎丹後は関ヶ原宿口あたりで、豊久の乗っていた馬を見つけたという説もある。中世から戦国時代の関ヶ原宿の場所はどこなのか不明だが、江戸時代の中山道の関ヶ原宿は関ヶ原盆地のほぼ真ん中にあり、現在の関ヶ原町の中心部にあたる。このあたりで豊久が討死したならば、伊勢街道をめざすも、烏頭坂よりだいぶ手前で力尽きたことになる。