石田三成の「参戦要請」を拒絶

9月15日の決戦当日、豊久は島津軍の先手として最前線にあった。東西両軍の激突が一刻(約2時間)ほどつづいた頃、隣接する石田三成の陣所から、三成本人が豊久の陣所にやってきて、島津軍の参戦を促した。そのとき、豊久は次のように答えた(「山田晏斎覚書」)。

「今日のことはもはや面々が手柄次第に働けばよい。御方(三成)もそのようにお心得あれ」

豊久は自軍の進退について自力でやるから他人の指図は受けないと、三成の督戦を拒絶した。これはおそらく松尾山の小早川秀秋が裏切って大勢が決したためで、今さら小勢の島津軍が押し出しても大勢を覆せなかったからだろう。三成の陣所が崩れ落ちたのはそれからほどなくだった。豊久は義弘と相談して前方の伊勢路への強行進軍を決意する。決戦に臨んで、豊久は義弘の家老の長寿院盛淳と別れのあいさつを交わした(「井上主膳覚書」)。

「盛淳は中務様(豊久)とは別備えだったので、盛淳のほうがやってきて馬上よりお暇乞いをなされた。中務様が仰せには『今日は味方が弱いので、今日の鑓は付けない』(今日は敗北なので、いまさら鑓の高名は求めないという意か)と互いにお笑いになった」

義弘に撤退を説得し、自らは戦場へ

敵味方入り乱れての乱戦となったとき、豊久が義弘に進言した(『本藩人物誌』)。

「天運はすでに極まれり。終わりを全うすることはかないますまい。我らがここで戦死するので、公(義弘)は人数を率いて帰国なされませ」

義弘がそれでも承諾しないので、豊久は重ねて声を高くして「御家の存亡は公のご一身にかかっていることをお忘れなく」と念押しして、自らわずかな手勢を率いて、徳川軍に斬り込んだ。その間に義弘主従は辛うじて逃げ切ったのである。

退き口は当然ながら、多くの犠牲を伴った。とりわけ、副将格の豊久と家老の長寿院盛淳の戦死は壮絶だった。その様子は数多くの史料から辿ることができる。