関ヶ原の戦いで東軍に負けた西軍はどうなったのか。島津義弘が率いる部隊は、戦場を突破して薩摩へ撤退する「島津の退き口」を敢行したという。歴史作家・桐野作人さんの著書『関ヶ原 島津退き口』(ワニブックスPLUS新書)より、決死の覚悟で敵の足止めをした武将、島津豊久のエピソードを紹介しよう――。
父・家久の時代に豊臣大名へ転身
島津豊久(1570〜1600)は島津四兄弟の末弟、島津家久(1547〜1587)の嫡男である。天正15年(1587)、家久が豊臣秀長に降伏したとき、島津本宗家から独立を企てて豊臣大名へと転身した。豊久は豊臣秀吉から父家久の旧領、日向国佐土原2万8000余石を安堵された。
名乗りは豊久が有名だが、じつはほんの一時期しか名乗っていない。関ヶ原合戦のあった慶長5年(1600)2月までは忠豊と名乗っていることから、関ヶ原合戦時も忠豊だった可能性が高い(『島津家文書』3-1032号)。通称は又七郎で、朝鮮出兵(文禄の役)における陣立を示した「高麗国出陣人数帳」では「嶋津又七郎」と記されている(『島津家文書』2-957号)。
朝鮮から帰国した豊久は慶長4年2月、戦功により父家久が名乗っていた官途である中務大輔を名乗ることを許され、同時に侍従に任ぜられた(『本藩人物誌』)。これは「公家成」の栄誉である。
西軍の挙兵に遭遇、致し方なく参加
豊久の初陣は15歳のときで、天正12年(1584)3月、島原半島の沖田畷の戦いである。父家久が島原半島に出陣したとき、豊久も同行した。相手は「五州二島の太守」と呼ばれた龍造寺隆信(肥前国佐嘉城主)である。島津軍は龍造寺の大軍を相手に苦戦したが、総大将隆信を討ち取って勝利した。豊久も新納忠元の後見によって一人を討ち取って初陣を飾った。
慶長5年(1600)5月、庄内の乱が終息したのち、豊久は参勤のため伏見に上った。この上京が結果として、豊久の運命を決してしまう。秀吉亡きあとの豊臣政権の執政・徳川家康に拝謁したのち、帰国の許可を得て大坂に下ったが、ほどなく石田三成ら西軍の挙兵に遭遇してしまう。豊久は致し方なく義弘とともに西軍に投じた。