「退き口」の戦場で起こっていたこと

すでに石田勢も宇喜多勢も背後に敗走した。島津勢だけが戦場で孤高を保っていた。東軍は両勢を追い崩した勢いで、島津の陣中に矛先を向けてきた。陣中には発砲を禁ずる軍令が出ていた。だから、島津勢は一糸乱れず静まりかえっていた。

島津勢の先手は豊久で、その右備えには山田有栄ありなががいる。豊久率いる先手衆は、すでにいつでも突進する支度ができていた。これまで溜めに溜めた反発力を決戦ではなく、戦場離脱に用いらねばならなくなったが、薩摩兵児へこにとっては、そうした思いは些末なことである。

島津勢はあらかじめ鉄砲の事前準備である「前積まえつみ」をせず、したがって「繰抜くりぬき」という鉄炮戦術も採用せず、ひたすら沈黙を守った。豊久が少ししびれを切らしたのか、「時分よきかな」と言って馬上の人となり、弓を手に持った。当年31歳とまだ若い豊久はだいぶ気負っていた。その様子を見た赤崎丹後が「まだちと早うござる。膝に敵が懸け上がるくらい寄せつけるべきかと」と制した(「黒木左近兵衛申分」)。

敵も味方も判別できない乱戦模様

敵が眼前に迫った。赤崎が「時分よく御座候」と告げたので、豊久は再び馬上の人となった。島津の軍法は武者鉄炮といい、足軽ではなく武士がみな鉄炮を放つ仕組みである。折り伏しているところへ、敵が間近に近づいたと見るや、筒先を揃えて一斉射した。

敵がバタバタと倒れる。しかし、そのしかばねを乗り越えて敵が湧くように押し寄せてきたため、次弾を放つ暇がない。敵味方入り乱れてしまったので、鉄炮が役に立たなくなり、鉄炮を腰に差す者、また細引(細めの紐)で琵琶を懸けるように首にかける者、また捨てる者もいたりという有様ながら、みな刀を抜いて前方に打って出た(同書)。

最初に押し出したのは、豊久の備えに付属された右備えの山田有栄の一手だった。そのなかでも、真っ先に駆け出したのは長野勘左衛門だった。前夜、夜討ちを唱えた男である。義弘が前年正月、北薩出水を加増されたとき、普請奉行として出水に移った。義弘の危急を知り、同郷の中馬大蔵ちゅうまんおおくらとともに出水からはせ参じていた。