家康の家臣が豊久の首だと証言
なお、豊久が関ヶ原盆地で討死を遂げたのが確実なことを示す史料がある。家康に島津氏の取次を命じられた家臣の山口勘兵衛直友という人物がいる。庄内の乱や関ヶ原の合戦後の和睦交渉などで南九州の島津氏領国まで派遣されたこともあり、義久・義弘・忠恒はじめ、主だった一門や重臣と何度も顔を合わせていた。当然、豊久とも顔見知りだった。
直友は元和8年(1622)9月に他界したが、徳川期の編年史料である『大日本史料』12編之48に収録された直友の卒伝(故人の略伝)に興味深いことが書かれている。合戦が終わったあと、東軍諸将が家康の本陣近くに集って首実検の儀式が行われた。そこに集められた西軍将士の首級のなかに豊久のそれとされるものがあったが、ほとんど豊久の顔を知る者がいない。そこで、家康が直友を召し出して確認させた。
「その首に、勘兵衛様(直友)を召させられ、(家康が)見知り候かとお尋ねに成られ候、中務(豊久)首に疑い御座なしと、仰せ上げられ候」
家康から豊久の首かと確認を求められた直友は「疑いなし」と答えたのである。
このことは豊久の討死した場所が関ヶ原盆地内の戦場だったことを示しており、盆地からだいぶ離れた上石津での死去説を明確に否定している。
豊久の最期の様子はよくわからない。退き口で生き残った者たちの覚書や書上にも豊久の最期をうかがわせる記事はない。主従もろとも討死してしまったからだろうか。
のちの記録によれば、豊久は中村源助・上原貞右衛門・冨山庄太夫・以下13騎で東軍の大軍のなかに駆け入り戦死したという。敵は福島正之(正則の養子)だった。豊久の首級を挙げたのは小田原浪人の笠原藤左衛門という(『本藩人物誌』)。