外務大臣だった祖父はどうやって戦争を回避しようとしたか
【中島】そこで東郷さんにうかがいたいのは、日米戦争開戦時に外務大臣を務めた、東郷さんのお祖父さまである東郷茂徳のことです。東郷茂徳は最後まで日米戦争を回避しようと努力していましたが、アメリカからハルノートを突きつけられ、開戦やむなしという判断に至りました。
ウクライナ戦争と日米戦争は時代も条件も異なるので、簡単に比較することはできません。しかし、この間の米ロのやり取りを見ていると、私はどうしてもハルノートのことが頭に浮かびます。東郷茂徳とプーチンの心境には、どこか通じるところがあるのではないでしょうか。
【東郷】私も当時の日本と現在のロシアには重なる部分があると思っています。茂徳の娘である私の母から、ハルノートを突きつけられた日の夜、茂徳が別人のように落胆していたという話を何回も聞かされました。
茂徳の手記『時代の一面』に基づいて当時のことを振り返ると、茂徳はアメリカとの戦争を回避すべく対米交渉に臨み、「甲案」と「乙案」をまとめました。
甲案は中国から軍を引き上げると明記したことがポイントです。軍部は当初、九九年駐留したのちに引き上げると主張していましたが、茂徳が粘り強く説得し、最終的に駐留期間を二五年まで短縮させました。
日本の精一杯の譲歩を打ち砕いた「ハルノート」
【東郷】しかし、アメリカが甲案を受け入れないのは明らかでした。そこで、茂徳は乙案を取りまとめます。
乙案のポイントは、南部仏印から撤兵することと引き換えに、対日石油禁輸措置の解除を求めたことです。一九四一年七月に日本軍が南部仏印に進駐したことで、アメリカは石油禁輸に踏み切り、日米関係は急速に悪化しました。これを以前の状態に戻そうとしたわけです。
アメリカも乙案に前向きな姿勢を見せていました。そこで、茂徳は期待感を持って交渉を進めていたところ、突然アメリカからハルノートが提示されたのです。
ハルノートでは、日本軍が中国やインドシナから完全撤退することや、当時日本が承認していた汪兆銘政権の否認、三国同盟の無効化など、アメリカが一〇〇%日本に勝利することを目的とする内容でした。甲案や乙案をつくり、精一杯の譲歩をしたあとにこれほど厳しい要求がなされたわけですから、日本側がこれを最後通牒と受け止めたのは当然だと思います。