「大人不在の世界」にしてはいけない
私は仕事柄、自分より年下の若者に会う機会が多く、かれらとの対話のなかでたくさんの学びを得ている(本記事も、かれらとのコミュニケーションの機会で得られた知見によって書かれている)。
だからといって、若者たちにとって不快感のない、心地よいコミュニケーションをしてあげようというサービス精神は持ちあわせていない。世代の異なる者同士の対話のなかで「考え方が違うな」「価値観が合わないな」「関心が異なるな」といった感覚を頻繁に味わうが、それを悪いことや恥ずべきことだとは考えない。時代が変わる、世代が隔たるとは、得てしてそういうものだからだ。
いつまでも若者と同じ精神性のままでいて、若者に共感や好印象を持たれることが年長者たちにとって目指すべき「善」となってしまったら、いったいだれが「大人」という嫌われ者の(しかし社会の健全な更新と継承に必要不可欠な)役割をやるのか。だれも社会的責任を取らない「大人不在の世界」ができあがってしまうだけだ。
「大人不在の世界」では、口先では若者に好かれようとするが、肝心なところで若者のために責任を取ることも「老害」と嫌われる損な役割を引き受けることも拒否する、見た目だけ年寄りで中身は幼稚な、異様な存在がやたら生み出されてしまうだけだ。これでは社会は停滞してしまう。
世の中で「若者から嫌われたくない」「オジサン風だと思われたくない」などと憂う年長者ほどには、私はかれら若者と年齢は離れていないが、しかし堂々と「時代の違い」を示す。それでよいと考えている。なぜならそれが「大人」としての責務だと思うからだ。
私は彼らより少し先に「越えられる役目」がやってくる。しかしかれらだっていずれ年をとって「大人」をやらなければならない。結局は順番なのだ。