そもそも「おじさん的なもの=悪」いつから決まった?

以上が「若者がLINEで句読点を嫌がる理由」の解説になるが、そもそも論として釈然としないこともある。なぜそうまでして「若者に嫌われたくない」「若者とのズレをなくしたい」と、最近の中高年層は思うのだろうか。

いったいなぜ「若者的であることが善」で「おっさん的であることが悪」という価値観を所与のものとする雰囲気がこの社会全体に広がってしまったのだろうか。私はそれこそ「年齢差別」そのものであると考えているのだが。

年長者は年長者らしい「わきまえ」を持って、堂々としていればそれでよい。若者からどう思われようが、それでいちいち自分の言葉づかいやLINEのメッセージを「若者に好意的に見てもらえるように」変えようとすること自体がおかしい。「おじさんLINE」とか「おじさん構文」と揶揄されようが「だからなんだ?」と言い返してやればよい。

時代感覚が違うこと、時代先進が違うことを、はっきりと胸を張って示してやることも、大人としての権利であり同時に責務のひとつである。矜持といってもよいだろう。

スマホでタイピングする女性の手元
写真=iStock.com/oatawa
※写真はイメージです

若者たちに対してことさら傲慢になれ、あからさまに抑圧してやれ、意地悪をしてやれと言っているのではない。かれらと違うからといって短絡的に「悪いこと」だと結論して、恐れたり隠したりするべきではないということだ。大事なのは、かれらとの「違い」や、かれらの「言い分」をメタ的に理解し、ときに受け入れながら、それでも自分たちとの時代の違いをはっきりと伝える役割を引き受けることだ。

年長者は若者とは時代精神も価値観も違う。慣れ親しんだテクノロジーも違う。当たり前のことだ。後輩たちとの「違い」をはっきりと示して、そうしていつの日か彼らに「超えられる役目」をまっとうして時代の先頭を譲る。そうして、世の中は前に進む。胸を張って「老害」をやって、しかし最後には敗れて去っていく。それが年長者の権利であり、託された尊い仕事でもある。LINEの文章をキモがられないかどうかとか、若者の顔色を窺っている場合ではない。もっと大切なことがある。