エリートからは「下界」が見えなくなってきている

私はこの文筆業界で仕事をするようになってから、東京大学を卒業した友人や知人がずいぶんと増えたのだが、実際のところかれらは「教育(の機会にも結果にも)格差がある」という事実を主観的には実感しづらい環境で生きてきた場合が珍しくない。

このように書くと驚かれるかもしれないが、本人としてはまったく嫌味でも謙遜でも誇張でも自慢でもなく、本当の意味で「人並みに勉強していたら、普通に合格圏内に東京大学が入ってきたから、受験してサクッと合格した」という人もそれなりにいるのだ。むしろ東京大学よりも偏差値でわずかに劣る他の難関大学(たとえば東大以外の旧帝国大学や早慶などの難関私大)でこそ「猛勉強の末になんとか合格を勝ち取った」という人が多いのではないだろうか。

毎日塾に行き、家では家庭教師を雇い、青春時代のすべてを勉強に捧げたからどうにか東京大学に入れた――という、重い覚悟と犠牲を支払うステレオタイプな「ガリ勉」のロールモデルではなく、もっと軽い雰囲気で「それなりに勉強したら結果がついてきたから」とか、もっといえば「家からでも通えそうなところがたまたま東大だったから」という人さえいる。

分かりやすくいえば、かれらの多くは「勉強にリソースを10投資すれば、リターンは10返ってくる」という線形的でシンプルな世界観を(自分がまさしくそうだったからこそ)素朴に信じられる成功体験を積みあげているのだ。そんな彼らだからこそ「お金がないなら参考書を買えばいい。YouTubeを見ればいい(そうすれば十分に学習効果を得られるのだから)」と考える。繰り返し述べるが、悪気はない。

「教育格差=経済格差」では見えなくなってしまうもの

しかしながら、教育格差の問題について考えるとき、「親の経済力によって受けられる教育投資の差によって生じたものだ」というわかりやすい物語だけでは見えない部分があまりにも多い。

結論を述べれば、「貧しい家庭は十分な教育投資が受けられない」だけではなくて、「貧しい家庭には、貧しさと同じかそれ以上に受けられる教育が乏しくなる“べつの理由”がたくさんある」からこそ、結果的に教育格差が発生してしまうのだ。

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あまり声を大にして言いたいことではないのだが、幼いころの私は諸事情により、貧しくなおかつ学歴の乏しい人が多く暮らす街で長い時間を過ごしてきた。幸いにも、当時の貧しさがつらかったとかそんな記憶は私にはない。そこで私は多くの友人に恵まれたからだ。

その街でできた友人たちの家にしばしば遊びに行くこともあった。その経験則からいえば、貧しい街の貧しい家のほとんどでは、まず机がない。冗談で言っているわけではない。家のなかに「机」と呼ばれる家具が存在しないのである。言うまでもないが、勉強するための静かで落ち着いた部屋もないし。