本土―台湾間の情報伝達も加速化された
また、台湾での満洲事変報道も、とくに日本本土の新聞社から速報性が求められた。
実際、台湾での事変報道は、朝日、毎日両新聞社よりも在地の新聞社のほうが早かった。本土から搬送されてくる邦字新聞は、搬送に時間がかかりすぎ、事変報道の速報性という点からは論外であった。号外の発行も、島内の新聞社に限定されていたのである。
朝日台北通信部の蒲田丈夫はこれを問題視し、大阪毎日とともに、台湾総督府に向けて台湾における「号外」の発行を願い出ることにした。この申請に対して、島内発行の台湾日日などから反対はあったが、結局総督府はこれを承認。そして翌年1月10日、朝日は、本社特電をもとに内外のニュースを掲載した号外第1号を台湾で発行したのである。
こうして、満洲事変報道を契機として、日本本土と台湾の間の情報伝達のスピードは加速化される(「東京朝日」夕刊、1932年1月12日)。
高まる技術は国のプロパガンダに利用された
日本本土の新聞社は、号外の発行を通じて、台湾全域へ自社新聞をアピールしていく。
当初台北市内だけに発行された号外の部数は1万2000部程度。しかし、1937年7月の日中戦争勃発時には、初めて1頁大にわたって写真を掲載した号外が配布され、活字を読めない読者にも大きな衝撃を与えた。同年に発行された朝日の号外は、台北市内だけで約2万5000部、台湾全体では約5万部も発行されるようになっていた(朝日新聞社史編修室編『朝日新聞編年史(昭和12年)』)。
報道の速報性を保証する号外の発行は、現実に進行する戦況と同期する感覚を与え、「戦争熱」を高めることになる。さらに戦場の臨場感は、帝国日本が意図するナショナリズム強化の一翼を担う。戦況写真の空輸や電送という情報伝達手段と、速報性を重視してナショナリズムを喚起するプロパガンダ術は、つづく日中戦争、アジア太平洋戦争期に、さらに広がっていく。