戦争報道の強化で購買層が拡大した
一方、満洲における「朝日」の販売部数は、事変前の1929年には1万6000部にすぎなかったものの、40年には7万2000部、42年には10万部を超えるほどに急増していた(朝日新聞「新聞と戦争」取材班『新聞と戦争』)。朝日は、郷土部隊の戦闘や戦死者について記事を増やすことで、それまで新聞とは縁のなかった社会層も新聞を購読するように、増売の工夫に努めたのである。
こうして満洲事変を機に、外地での新聞需要が高まると、1933年11月に大阪本社で「満洲版」「台湾版」が創刊される。これら外地版の発行を促進するために、翌年4月に満洲国の首都新京(現長春)に満洲支局が開設された。
こうした朝日の満洲進出の動きは、主筆であった緒方竹虎の意向が強く働いていたといわれる(朝日新聞社史編修室編『朝日新聞編年史(昭和12年)』)。朝日の対外拡大路線を担うためにも、満洲には多くの特派員が派遣され、多くの戦況写真が撮影された。
さらに読者を惹きつけた写真を多用したビジュアル記事
朝日は満洲事変を機に社の論調を転換させたことで、売り上げを伸ばした。紙面に掲載された迫力ある現地写真が、増売を後押ししたのである。
また、1931年発行の『アサヒグラフ』412号、413号(9月30日、10月7日)では「満洲事変画報」を、翌年の臨時号(2月5日)では「満洲事変写真全集」を特集している。写真を多用したビジュアル記事は、読者の興味を強く惹きつけた。
さらに、1931年9月21日、22日には、東京朝日本社の講堂で、特派映画班が撮った『日支両軍衝突事件』が映画第1報、第2報として上映された。このときの様子は、次のように記されている(「東京朝日」1931年9月22日)。
観衆は定刻前30分から講堂にあふれ、文字どおり立錐の余地もなく、次々に銀幕の上に躍り出る奉天占領の状況、勇敢なる我軍の行動等手にとる如く展開され大喝采を博した。続々と集まってくる観衆のために、引続き3回にわたって映写を繰り返して大成功を収めた。