日本の戦争はいつ終わったのか。京都大学の貴志俊彦教授は「日本では玉音放送のあった8月15日が“終戦の日”となっている。しかし、これはあくまでも自国民に向けた無条件降伏を受諾する意思表示にすぎず、世界共通の認識ではなかった」という――。

※本稿は、貴志俊彦『帝国日本のプロパガンダ』(中公新書)の一部を再編集したものです。

「玉音放送=戦争終結」ではなかった

日清戦争から約50年間つづいた「戦争の時代」は、いつ終わったのだろうか。

昭和天皇
昭和天皇(写真=https://www.loc.gov/pictures/item/2002721830//PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

まず思い浮かぶのは、8月15日の、いわゆる「終戦の日」である。映画にもなった半藤一利の小説『日本のいちばん長い日』によって、8月14日の宮城事件(クーデター未遂事件)から翌15日の昭和天皇の「玉音放送」までの2日間に、戦争終結をめぐる攻防があったことはよく知られている。

では「玉音放送」が、戦争の終結であったのだろうか。政府・軍部でポツダム宣言の受諾が決定されたのは、確かに前日の8月14日に開かれた御前会議の場であった。しかし、15日の「玉音放送」は、昭和天皇が国民に向けて無条件降伏を受諾する意図があることを伝えた放送にすぎなかった。連合国側にとって実効性はなかったのである。

2番目にあげられる「終戦」の日は、米戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印がおこなわれた1945年9月2日である。天皇および政府の命により外務大臣重光葵、大本営(「大本営令」は11月30日に廃止)の命により参謀総長梅津美治郎の2名が全権代表となった。無条件降伏の具体的な内容は、日本軍および日本国民による敵対行為の停止、軍用・非軍用資産の温存、連合国軍最高司令官のすべての要求の執行など。これらの実行を帝国日本が約束するというものである。

降伏文書をもとに、同日に昭和天皇は「降伏文書調印に関する詔書」を発布。日本軍の武装解除が命じられる。この詔書に基づいて、陸海軍は武装解除するとともに、1945年11月に陸海軍両省は廃止され、翌月に陸軍省は第一復員省、海軍省は第二復員省に改組された(「朝日」1945年12月1日)。

3つ目の終戦日候補は“4月28日”

しかしながら、この降伏文書は日本の無条件降伏を含めたポツダム宣言の受諾を定めたものであったために、連合国の対日戦闘行為を停止するかどうかは明文化されていない。

3番目にあげられるのは、日本と連合国との間で締結されたサンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日である。平和条約の第1条には、日本が主権国家として「独立」するとの一文の前に、「日本国と各連合国との間の戦争状態は、……〔この条約が〕効力を生ずる日に終了する」とある。これによって、英米両国をはじめ、48カ国の調印国との間で終戦が了解されたわけである。一方、この条約に調印(批准)しなかった国々については、後述する。

では、日本の主権が回復したこの4月28日は、国民にどのように捉えられていたのだろうか。それを示唆するのが、図版1の記事に挿入されている、那須良輔の風刺画である。吉田茂首相が国民大衆をほったらかしにしたまま、「追放解除組」や「脱税組」と乾杯している挿絵には、台頭する旧勢力を茶化す意図が込められている。

「毎日」日華条約締結の記事 1952年4月28日
図版1:「毎日新聞」日華条約締結の記事 1952年4月28日(出所=『帝国日本のプロパガンダ』)

那須といえば、日中戦争開戦の翌1938年に実業之日本社の従軍記者として中国に渡り、本隊から漢口かんこうの司令部報道班に転属して地元民向けの宣伝ポスターや宣伝ビラ(伝単)を作った人物として知られる。

帰国後は大本営参謀本部で宣伝ビラに漫画を描くなどプロパガンダ・メディアの製作にも従事。戦中にプロパガンダ工作に従事した那須のような人物でさえ、飢餓の時代を経て日本が迎えた主権回復には冷ややかな目を向けていたのである。