宣伝工作に報道界が取り込まれていった
また、日本国内の報道手法は、在満日本人にも影響を与えた。事変後、満洲南部各地には日系の治安維持会がばらばらに組織化されていたが、これらを統合するために、奉天で自治指導部が設置された。
自治指導部は、中華民国からの満洲分離独立、王道主義の実現を求めた。そのために満洲日日新聞社印刷所で多色刷のプロパガンダ・ポスターを大量に印刷し、奉天を中心とした満鉄沿線に掲示した。
自治指導部のこうした宣伝工作は、1932年3月に満洲国が建国されてからは、国務院資政局内の弘法処のもとでビジュアル・メディアを用いたプロパガンダ戦略に引き継がれる。さらに、満洲弘報協会や満洲国通信社でも、満洲国による情報統制が一元的に進められたのである。
他方で、1920年代に満洲国や関東州の街角に貼られていた反日ポスターは、中国国民党のイデオロギーである三民主義を普及するものであったために、街角から急速に姿を消していた(貴志俊彦『満洲国のビジュアル・メディア』)。
満洲事変から2日後には本土で「号外」
満洲事変を通じて、新聞の売り上げを伸ばす工夫として忘れてはならないのが、報道の速報性がいっそう重視されるようになったことである。
満洲事変からわずか2日後、1931年9月20日付の「東京朝日」の号外に事変勃発が報道された(図版1)。この写真は、9月18日に現地から京城(現ソウル)まで汽車で輸送され、京城から広島経由で大阪本社まで空輸。さらに東京本社へ電送され、東京本社で製版されて号外が出された。
済南事件や霧社事件の場合も、写真の空輸が試みられたが、さらなるスピードアップがはかられたのである。
満洲事変後、日本軍は満洲のほぼ全土を占領。のみならず、翌年の1932年3月1日、清朝最後の皇帝溥儀を執政にたて、満洲国を成立させる。さらに、1933年2月には、領土拡張のために熱河省や河北省に軍を侵攻(熱河事件)。
このころには、戦況写真は平壌や京城で中継されずに、朝日は自社機で遼寧省西部の錦州から大阪まで直接空輸する輸送体制が取られた(「大阪朝日」1933年3月5日付)。満洲事変から2年の間で、報道の速報性はいっそう高まった。