「自由」を与えられた国民はむしろ混乱した
このとき、「無秩序」に拍車をかけたのが、突如としてロシア市民に与えられた「自由」だった。市民は自由というものを根源的には理解できず、混乱に陥ったのである。帝政ロシア時代、多くの人々は皇帝と貴族の奴隷、つまり農奴として暮らしてきた。ソ連時代は赤軍の上官の命令に従って戦い、計画経済のもとで各地方の共産党幹部の指示に従って働いてきた。
長らく絶大な権力者や中央政府の指示に従って生きてきた人々は、自由という概念に慣れていなかった。アメリカやイギリス、フランスのように、革命によって勝ち取ったわけでもない。
そのため、互いの自由を侵してはならないとか、自由には責任が伴うといった根本的なルールを体感する機会もほぼゼロだったと考えられる。その結果、各自勝手に振る舞えばいいのだという間違った解釈が浸透する。自由とは、すなわち無秩序を意味することになったのである。
ある者は国有財産を自由に略奪し、またある者はオリガルヒと呼ばれる国家に寄生する新興貴族となり、マフィアは互いの利権と縄張りを争ってモスクワ市内でも銃撃戦を繰り広げた。テレビ東京モスクワ支局の近くにあった和食レストランも、暗殺の舞台となったことがある。支局のスタッフは、事件以来、決して食べに行くことはなかった。
「自由」をもたらそうとしたエリツィンの苦悩
ロシアに「自由」をもたらそうとしたのは、ソ連最後の指導者となったミハイル・ゴルバチョフ書記長の後を継ぎ、ロシア連邦の初代大統領となったボリス・エリツィンである。彼は共産主義を捨て、市場経済を導入した。自由民主主義陣営である西側から求められるまま、経済の自由化を推進したのである。
ところが、経済は混乱するばかりで社会不安が広がり、自由と民主主義は無秩序へと転落していった。追い詰められたエリツィンは、アルコールにも溺れて酔ったまま執務を行うようになり、部下である首相の任命と解任を何度も繰り返した。その姿は、まさにロシアの無秩序と苦悩の象徴でもあった。
そして1999年8月、エリツィンはプーチンを首相に任命。事実上の後継者指名だった。