「36歳の時、サラリーマンは一番いい仕事をしなさい」

「マーケティングの天才」と称されていく前田は、のちに次のように振り返っている。

「お客様は、予定調和的なものには魅力を感じませんが、あまり先を行き過ぎた物もダメです。手の届く幸せではありませんが、手の届く満足、手の届く憧れ、これがよく言われる『等身大の半歩先』です。しかし、半歩先も、『大衆と先端』の両方が分からないと落とし処がわかりません。何時も先端に接していることが必要ですし、極端に言うと、先端の実感を掴む為には、あえて先端を商品化しないとわからないとも言えます。さじ加減を掴むと一口に言っても悩ましいところです」(「思考の技術について」)

「成功体験が大きければ大きいほど、忘れられない記憶として我々の中に刷り込まれます。周囲の環境が変わっていても、どうしてもその体験を捨てきれないのです。そして、大きな失敗を犯してしまいます。成功体験と同様に、我々は多くの既成概念にも取り巻かれて生活しています。その既成概念も、所与の条件のように我々の思考と行動を支配します。それから抜け出す為にはどうしたらよいか。何時も自分の思考を真っさらにしておくことが必要です」(「思考の技術について」)

「自分の思考を真っさらにする」ため、前田は幅広く様々な人々と交流していた。舞踏家の田中泯のようなアーティストの他、広告代理店、広告クリエーター、建築デザイナー、リサーチ会社の関係者など、実務家の人脈も広い。

永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)

「36歳の時、サラリーマンは一番いい仕事をしなさい」

前田はのちに、自分の部下たちにこう話していた。前田が「ハートランド」を作ったのは、36歳の時だった。それほど前田は「ハートランド」に思い入れがあった。

「個人的なことになりますが、私に『何が貴方の今までの仕事のなかで印象的か、何が自分のバネになっているか』と問われれば、迷うことなく『ハートランド・プロジェクト』と答えます。私の思考・行動・ネットワークの全てを支配していると言っても過言ではありません」(「思考の技術について」)

80年代にキリンが商品化した中で、いまでも販売されているビールは「ハートランド」だけだ。

「ハートランドと(90年発売でやはり前田が作った)一番搾りは、コインの裏表。ハートランドがインディーズなら一番搾りがメジャーレーベルです」

そう語るのは現在キリンビール企画部部長を務める山田精二だ。89年入社の山田は、いまもなお、前田を「師」と仰いでいる。

「ハートランド」の目的は、看板商品「ラガー」に安住し、変化を拒むキリンを変えることだった。

「あえてダサく作れ」の真意

ところが、その狙いとは逆の動きが起こる。

それは「ハートランド」を缶ビールにして全国発売する、という動きだった。

「ハートランド」は「ラガー」に対抗する商品として、コアなファンだけに届ける「とがったビール」のはず。それを缶ビール化して全国で販売するのは、ブランド価値をみずから毀損きそんする行為に他ならなかった。

大量生産・大量消費の商品にすれば、「ラガー」と同じ土俵で闘うことになる。それでは「ラガー」に勝てるはずがない。「ハートランド」は「ラガー」の引き立て役に甘んじることになる。

しかし、「ハートランド」缶の全国発売は決まってしまう。全国発売を決めたのは、絶大な力を持つ営業部だった。「ビアホール・ハートランド」が成功している以上、缶入り「ハートランド」も売れるだろうと考えたのである。前田の仕事がうまくいった結果、狙いと真逆の結果を招いたのは、皮肉という他なかった。

前田にとって、一番思い入れのある「ハートランド」も、完全に成功したわけではなかった。ただ、そうした失敗の経験から、前田は将来の成功の芽を見出していく。

のちに前田は、次のように記している。

「『自分の全知全能をかけて考えた商品や戦略、戦術』なら、たとえ期待通りの成果が出なくても、必ず次に繋がります。そういった失敗を大いに許し奨励する組織風土にしたいと痛切に思っています」(「思考の技術について」)

その後、前田は、大ヒットする「一番搾り」を90年に開発するが、発売直後に左遷されてしまう。雌伏を経て97年に最年少部長で本社へ復帰。発泡酒「淡麗」、健康系ビール類で初めて売れた「淡麗グリーンラベル」、缶チューハイ「氷結」などのヒット作を世に出していく。

「ヒットするには、親しみやすさが大切。パッケージデザインは、あえてダサく作れ」と、部下に支持していた前田。そんな彼の原点は「ハートランド」にあった。

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