ただし、この時代の武士は騎馬戦に有利な沓(鐙使用に適した革製の履物)よりも歩行戦に適した草鞋や、その半分の長さの足半を履いた。たとえば、信長クラスでも戦場において足半を腰にさげており、元亀四(一五七三)年の刀根山合戦では恩賞として兼松正吉にそれを与えている(『信長公記』)。
元来、騎射や馬上槍は武士の嗜みではあったが、必ず使用時に死角ができるので、それをカバーする従者の存在が不可欠だった。そもそも、戦場に武士は単独で参陣することはできなかった。
馬の口取りをはじめとする歩行の雑兵が付いたし、その周囲を馬上の一族・郎党が護衛した。それに雑兵が率いた兵粮や飼葉などを載せた駄馬が追随するのが、彼らの伝統的な出陣風景だった。
なお、兵粮は基本的に持参である。敵地で稲薙ぎ・麦薙ぎをして得ることもあったが、収穫前の稲や麦は実入りが悪かった。ましてや、乱取りによって敵方から調達するのはリスクが大きく、例外的だった。
後の朝鮮出兵でもそうだったが、戦場でもっとも恐ろしいのは、兵粮が尽き飢餓に苛まれることだった。戦争が長期化する戦国時代後半以降、戦場では市が立ち、商人が出入りするようになるのである。
鉄炮もたらした軍事革命
武士は、日頃から戦争のための修練が不可欠だった。馬術・弓術・槍術・剣術については、戦国時代までに大坪流・日置流・新当流などの代表的な諸流派が成立しており、師弟の間に免許皆伝が伝授・認可される印可制度が存在した。
戦国時代の新兵種として注目されたのが足軽以下の雑兵だった。彼らの得意とする武器は、長槍である。腕自慢・力自慢の若者が雇われて、最長で信長の長槍隊のように三間半(約七メートル)もの長大な槍をもち、横隊で叩くように振り下ろしながら前進するのである。
それだけでも威力があったし、槍衾をつくれば騎馬部隊に十分対抗できたから、長槍隊の効果は絶大だった。諸大名は、槍の長さを競いつつ長槍隊の編成に心がけた。ただし、長大な長槍を使いこなすには足軽たちを専属で雇って訓練せねばならないため、それ相応の資本力がないと不可能だった。
戦国時代前半の戦争は、規模こそ数千人規模へ拡大したが、軍備・兵粮さらには武士や足軽の体力に限界があり、何カ月にもわたる長期戦は不可能だった。しかも勝敗が偶然性に左右される側面もあったから、天下統一など想像もできなかった。
ところが鉄炮の導入に端を発する軍事革命によって、このような限界は克服されることになった。戦国時代後半の戦場に注目しよう。科学兵器としての鉄炮がもたらした「勝てる戦争」の意義を問いたい。