自身も隣接する大隅おおすみ国の禰寝ねじめ氏との戦争で苦慮していた時尭は、二挺を買い求め、そのうち一挺を種子島の刀鍛冶に貸して複製することを命じた。

よく知られた通説であるが、これは慶長十一(一六〇六)年に種子島久時が祖父時尭を顕彰するべく、大龍寺(臨済宗、鹿児島市)を開山した南浦文之なんぽぶんしに執筆させた「鉄炮記」にもとづくものであり、信憑性という点ではいささか疑問符が付く史料である。

担当した八板金兵衛は、高熱にも長期間の使用にも耐える銃身の製作は刀鍛冶の技術を投入して成功したが、銃底を塞ぐ尾栓びせんの加工に頭を悩ませた。ここを取り外せる構造は、銃身の清掃や不発弾の除去などのメンテナンスにおいて、必要不可欠だったからである。

尾栓としての雄ネジと雌ネジの工夫については、娘若狭をポルトガル人に差し出して得たとする悲話を伴い、今に伝承されている。

冑
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アジアで最初に実現した国産化

種子島氏が購入したもう一挺は、島津氏を通じて将軍足利義晴に献上したという。義晴も、天文十三年二月に複製品の製作を国友村の善兵衛・藤九左衛門・兵衛四郎・助太夫ら四人の刀鍛冶に命じた。

彼らも尾栓の技術に苦しんだが、わずか六カ月で二挺の鉄炮を製造して献上した。これは、奥書に寛永十(一六三三)年三月と記す「国友鉄炮記」(実際の成立は元禄五〔一六九二〕年以降とされている)によるものである。

有名な由緒記にもとづいて紹介したが、これらはいずれも諸書の関係記事を適当につなぎ合わせたもので、信憑性は低いことが知られている。それでも、種子島といい国友村といい、わずかな期間で国産化したのは事実である。

鉄炮は、それ以前にも中国や朝鮮に伝わっていたのであるが、国産化という点で日本はアジア諸国においても最速だったとされる。しかも高品質だったから、命中率が比較的高く信頼性も高かった。

関与したのが刀鍛冶だったように、優れた日本刀の鍛造技術が活かされたといわれる。鉄炮の国内普及は、早くも永禄年間(一五五八~一五七〇年)には本格化した。

量産、浸透の立役者…砲術師・鉄炮鍛冶・武器商人

鉄炮の実戦への導入の背景としては、まず火器の取り扱い全般に長じた砲術師によって、鉄炮の扱い方や火薬の調合法が戦闘員(大名から足軽に至るまで)に広く浸透したことがあげられる。

それには、稲富一夢(祐直すけなお)のような廻国する揺籃ようらん期の砲術師たちの活躍が想定される。次に重要なのは、国産鉄炮の量産システムが完成したことである。

これに関連するのが、製作者としての鉄炮鍛冶集団の成立である。その代表は、なんといっても堺と国友村であるが、紀伊国根来(和歌山県岩出市)や近江国日野(滋賀県蒲生郡日野町)の鉄炮鍛冶も有名である。