「真似されない仕組みをいかに作り上げるか」
コロナ禍においても売り場拡張を続け、商品数は当初の500点から約2000点にまで拡大。全体の約7割を沖縄県内の作家や企業による商品が占める。ベテランから若手まで、琉球菓子職人や伝統工芸の担い手の技が伝わる品々を表舞台に引き出し、オリジナルの商品開発に磨きをかけていく、その途上にある。
運営会社「リウボウインダストリー」の糸数剛一社長(62)はいう。
「生き残っていくためには、地理や歴史、県民気質、生活文化など自分たちの立ち位置を高いところから俯瞰して、どこで専門性を発揮できるのかを見極める。真似されない仕組みをいかに作り上げるかが勝負です」
だが、観光客激減の影響が長引き、経営の足元は盤石ではない。糸数社長は2020年、創業の地、旧デパートリウボウ跡地と建物を本土企業に95億円で売却するという大きな決断を下した。
「県民の皆さんにとって大切な百貨店は、どうしても潰すわけにはいかない。あらゆる方策を打って、なんとしてでも生き残りをはかっていく」――。創業家のDNAを預かる比嘉正輝会長と熟慮を重ね、“県民と共に”の精神を貫いた。創業者の遺産を不動産の形で受け継ぐのではなく、地域の文化創造を担う“百貨店業”として存続させる道を選んだのだ。
本土百貨店とはルーツがまったく違う
デパートリウボウの興りは、いわゆる呉服屋由来の「百貨店」とは異なる。終戦から3年後の1948年に米軍政府の許可を受けた「琉球貿易商事株式会社」として創業した。
激しい地上戦で市街地のほとんどが焼き尽くされた沖縄では、50万人以上のあらゆる世代が戦闘に巻き込まれ、更地状態からの復興を余儀なくされた。当初、物資は米軍政府からの配給で賄われていたが、圧倒的に物が不足していた。闇ルートでの売り買いなどで市民の暮らしは安定せず生活の足場を固められずにいた。
リウボウ創業者は、戦前に自社船舶を持ち、船の燃料や黒糖、鰹節などを売っていた宮里辰雄氏(故人)。創業の翌1949年には、那覇市内に輸入物資を小売り販売する「琉貿ストアー」や、外国人向けの土産品専門店「リバティーハウス」を相次いでオープンさせ、自由経済化への道に先鞭をつけた。だが、異常インフレによる相場変動や、保有する輸送船が遭難するなど事業はすぐに行き詰まることになる。