リウボウの前身「リバティーハウス」。1949年、那覇市牧志に開業し外国人向け土産品専門店として賑わった
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リウボウの前身「リバティーハウス」。1949年、那覇市牧志に開業し外国人向け土産品専門店として賑わった

米軍統治下の中、アメリカ視察で受けた衝撃

この急場を救ったのが、のちに約40年にわたって経営を主導することになる宮里氏の長男・宮里辰彦氏(故人)だった。那覇市内の中学から飛び級で鹿児島県内の高校に進み、2・26事件直後の東京帝国大学に入学。日本興業銀行を経て、戦時下の軍需品生産を統括する軍需省に入省。その後、軍政府下の沖縄民政府に通訳業務で入り、30歳で琉球政府貿易庁総裁に就いた、生粋のエリートだ。

サンフランシスコ平和条約への署名で沖縄が日本から切り離されることが正式決定したのと同じ1951年、34歳の辰彦氏は初めて沖縄から米旅客機に乗り、硫黄島やハワイを経由してワシントン、ニューヨークなど米国主要都市を訪問、現地の商業や貿易の現状を視察している。

テレビや家電が家庭に普及する米国人の生活を目の当たりにした衝撃、南米や東南アジアなど訪問先の国々、沖縄系移民の暮らしの様子などを地元紙を通じて積極的にリポートした。世界との相対の中で、沖縄の置かれた状況を俯瞰して見ることができた、数少ない人物だった。

復興には、軍政府の管理によらない自由な商取引の仕組みが必要だと訴え、実践的な物価安定策を提案した辰彦氏。物価抑制の動きと市場へのダイレクトな影響をつぶさに分析し、沖縄経済の実情を米・琉・日本の各為政者に発信し続けた。

米軍資金1万ドルを原資に、日本から必要な物資を調達するため1950年、「日沖通商協約」が締結された。沖縄側の代表として締結式に向かう宮里辰彦氏(写真右)らの様子が地元紙で報じられた
米軍資金1万ドルを原資に、日本から必要な物資を調達するため1950年、「日沖通商協約」が締結された。沖縄側の代表として締結式に向かう宮里辰彦氏(写真右)らの様子が地元紙で報じられた(故宮里辰彦 遺稿・資料集より)

欧米由来の商品が瞬く間に人気を集め…

父親が経営する小売業の危機も、そんな経済の軟弱地盤の上にあった。52年、体調を崩した父を助けようと、琉球政府商工局長への昇格を辞退して琉球貿易社への入社を決断する。

入社して8カ月後には、那覇市の繁華街に「OSSリウボウ(オーバーシーズ・サプライ・ストアー)」を開業。貿易実務の経験を生かしてアメリカやイギリスなど外国製に特化した衣料品、化粧品、装飾品を販売し、瞬く間に地元客の人気を集めた。

開業期の利益だけで赤字を補填して会社再建にめどをつけ、2年後の54年には国際通りの入り口(現在の県庁前県民広場の向かい)に店舗の拡張移転を果たす。ドル時代を通した消費拡大の波に乗って、その後、リウボウはライバルの三越や山形屋を圧倒する高収益性と無借金経営の礎を築いていった。