日本で地動説に触れた最初の日本人

ところが、蘭学を通じて西洋の天文学の知識を学ぶうちに、自ら輝く太陽を中心として、地球を含めた太陽の光を反射する、当時確認されていた六つの惑星が太陽の周りを回っているとの説を知る者たちが現われるようになった。地動説である。

池内了『江戸の宇宙論』(集英社新書)

日本で最初にコペルニクスの地動説の存在を知ったのは長崎通詞つうじ(幕府により公式に認められたオランダ語の通訳)の本木もとき良永りょうえいで、彼は1774年に、オランダ人ブラウの第一部天動説と第二部地動説を対照して記述した本を『天地二球用法』として抄訳した(天地二球とは太陽と地球の二つの球体のこと)。

ただ良永は、当時の学問の常識である朱子学が天動説の立場であり、世間の誰もが地球中心説を信じていたこともあって第二部を削除しており、地動説の立場を打ち出さなかったのである。

しかしながら、長崎の通詞仲間とは日常的に地動説のことを話していたようで、仲間内ではいわば常識となっていたらしい。というのは、三浦梅園ばいえんが1778年に長崎を訪れて吉雄よしお耕牛こうぎゅうなどと交流したとき、太陽中心説が当たり前のように説かれ、梅園は天球儀(太陽を中心とした太陽系模型)を手に取って見ているからだ。

日本の科学の発端となったコペルニクス説の訳本

おそらく良永は、コペルニクス説をきちんと紹介しておきたいとの気持ちが強くあったのだろう、幕府からの密命を受けて、イギリス人ジョージ・アダムスが書いた本(ジャック・プロースが蘭訳)を『星術本原太陽窮理了解新制天地二球用法記(太陽窮理了解説)』(1792〜1793年)として翻訳した。太陽が中心にあって、その周囲を回転する地球という描像の下で、私たちの世界を太陽系宇宙として客観視する視点(=太陽窮理)に到達したのである。

西洋から250年遅れていたが、同書の翻訳は理をきわめることによって新しい知の地平に達する、その素晴らしさを体得していく契機となった。これが日本において「窮理学」と呼ぶ「科学(理学)」の発端となったと言えるのではないか。幕府ご用達ようたしの通詞が出した訳本は公に広く刊行することはできなかったが、写本としてかなり広く伝わり、地動説が日本に受容されていったのである。

まさに、この写本を読んで地動説に魅せられたのが司馬江漢こうかんであった。