※本稿は、池内了『江戸の宇宙論』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
畏れ敬うものから愛でるものとなった星空
古代中国においては優れた景物として盛んに星を詩文に詠み込んでいるのだが、日本の最初の歌集である『万葉集』には星の歌がほとんどない(海部宣男『宇宙をうたう』)。その理由として、古代の人々には、星は人の魂が天に昇ったもの、不吉なものと見做す思想があったのではないかという説がある。あるいは、天が地の異変を予言して天文現象として表れるとする占星術が信じられており、人々は天の事象を畏れ敬う心が強かったのではないかとも言われている。
この傾向は平安末期から鎌倉時代にまで続き、七夕の歌は詠われてもそれは地上の恋の物語に焼きなおされているのである。しかし江戸時代になると、文芸の幅が和歌のみに留まらず、五七五の俳諧や川柳、五七調を基調とするさまざまな俗謡へと広がって、ようやく星空の美しさに感嘆した歌が多数詠われるようになった。星空を純粋に「愛でる」気持ちを吐露するようになったのである。
星空を「究める」には限界があった
それと軌を一にするように、江戸時代に入ってから、夜空に見えるあの星々はどのような運動をしているのか、そこに規則性はないのかを調べる人間、つまり「星空を究める」人間が登場した。麻田剛立や天文方として雇用された高橋至時、それに加えて間重富など、暦作成のための基礎データの測定を目的に太陽や月、そして惑星を観測し、その運動を計算する暦算家が登場するようになったのである。
併せて、岩橋善兵衛(1756〜1811)や国友一貫斎(1778〜1840)などが望遠鏡を製作し、太陽黒点や月の表面などの詳細な観察図を残している。これは「星空を愛でる」そして「究める」姿勢の表れと言えるかもしれない。
しかしそれでも限界があった。暦算家は、恒星が張り付いている天球が日周運動で回転し、その天球上を太陽・月・諸惑星が地球を中心として逆行運動するという説で満足した。これに対して儒家たちは、すべてが同一方向に動いており、恒星・外惑星・太陽・月という順で回転が遅くなっているとの恣意的な説で納得した。これらは天球や惑星の配置と動きが観測結果と矛盾しないよう工夫をした考察で、当時の「宇宙論」だとも言える。
しかし、いずれも太陽系の構造から積み上げた論理的な考察ではなく、いかにも間に合わせの(アドホックな)議論でしかない。実生活においてはそれ以上を考える必要が認められなかったのである。