つまり地動説、そして宇宙論を人々に唱道した最初の日本人になったのだ。また窮理学としての蘭学の面白さをわかりやすく語った著作『おらんだ俗話』(1798年)も出版し、人々を啓蒙することに貢献したのであった。江漢は日本最初の科学コミュニケーター、と言っても過言ではないだろう。
彼が自伝のつもりで書いた回顧録『春波楼筆記』(1811年)には、「天は広大なもので、遠くから地球を視れば、一粒の粟のようなものである。人はその一粒の粟の中に生じて、微塵よりも小さい。あなたも私もその微塵の一つなのではないか」という文章がある。広大な宇宙に生きる小さな存在としての人間を省察する、そんな哲学的な境地を正直に語っている。
エッチングで江戸の人々の「宇宙を見る目」を養った
曇天が多く、湿度が高い日本の気候では、星空は遠くまで見えにくいため、天はロマンの対象で「愛でる」対象でこそあれ、太陽系の運動や宇宙の全体構造までを論じる天文・宇宙にまで想像力を広げて「究める」ことがなかった。
ところが、江漢が自ら開発したエッチングの腕を活かして「地球図」(1793年)、「天球図」(1796年)を披露するとともに、先に述べた著作による啓蒙活動を行ったことによって、地動説・宇宙論を受け入れる人たちが少しずつ増えていったのではないかと思われる。
弟子にあたる片山円然(1764〜?)が『天学略名目』(1810年)において、江漢の説を繰り返し述べていることからわかるように、人々の宇宙を見る目を一気に広げたのである。江漢は単に西洋の説の受け売りをしたに過ぎないと言われ、事実そうなのだが、私はその背景にある彼の科学的空想力の豊かさを高く評価したいと思う。
宇宙の広大さと人間のちっぽけさを表現した志筑忠雄
同じ頃、長崎通詞の志筑忠雄は、西洋の天文学・物理学入門の文献を『暦象新書』として翻訳して(上編1798年、中編1800年、下編1802年)、ニュートン力学を日本に紹介した最初の人となった。志筑は、この『暦象新書』において、太陽系という小宇宙における地動説から広大な宇宙空間に星が点々と散らばっているとする無限宇宙のモデルまで、最新の宇宙像を紹介している。
江漢は「芥子粒が点々と散らばる宇宙」とか「荒野に馬があちこちに散策しているような宇宙」を想像したが、志筑も極大の宇宙空間に生きる人間の小ささを述べている。さらに「附録」として付けた「混沌分判図説」において、自らの創意に基づいて宇宙における天体形成過程の仮説を提案していることは高く評価できる。この「附録」で彼が論じた太陽系の形成過程の仮説は、カント・ラプラスの太陽系起源論と遜色がない。