経産省に依存せずに企業だけでグローバルルールを決めた
まさに「ベータとVHSの戦争」の再現で、ユーザーにとっては何のメリットもない話です。だから、この問題を打開するため、東芝に働きかけて、その話し合いを先の西室さんとしていたのです。ソニーは、最後の最後まで独自の規格を貫くほどの戦力も時間もなかったので、僕は最終的に社長の佐藤さんにこんな提案をしました。
「基本的には東芝のフォーマットに従うので、ソニーとフィリップスの特許を部分的に使ってもらえないだろうか」
佐藤さんは、極めて優秀で合理的な方だったので、こうした我々の提案を、
「出井さんの言うことはもっともです。意味のない競争はやめて一本化しましょう。ユーザーのためにもその方がいい」
と快諾してくれました。
そこで僕は国際電話で当時IBMのCEOだったルー・ガースナー氏に電話し、
「日本はこれでまとまったから、アメリカの方もそれで頼む」
と伝え、DVDの規格を日米で統一することができました。
この規格統一は経産省に依存せず、企業間でグローバルルールをまとめたのです。
肩書きや年齢よりも“個”が問われる時代
官僚と企業との関係においては、いまだに封建社会の残滓を引きずっている。だから、天下りも当たり前のように行われ、官僚が上で、民間は下という“官尊民卑”がまかり通る。
肩書きを欲するとこうした構図になるのでしょう。僕もそういった構図を経団連で見てきました。今は知りませんが、僕が副会長をしていた当時の経団連は、「経団連の○○をしている企業」といった肩書きが欲しい企業も少なくありませんでした。
サラリーマンでも、課長よりも部長、部長よりも役員という具合に、上を目指すのは当然です。ときにはそれが働くモチベーションになるかもしれません。
それはそれでいいと思います。けれども、肩書きしか自分のアピールポイントがないというのは不幸です。定年退職後も「元○○社部長」といった名刺を配っている人がいますが、セカンドキャリア、サードキャリアが当たり前になりつつある今の時代では、過去の肩書きの意味は薄れていきます。大切なのは、自分は何ができるのか、どう貢献できるのかというバリューです。
退職後であっても、65歳でも70歳でも、“個”としてのバリューがあれば、それを活かして働く場は見つけられるでしょう。東京になければ地方、地方になければ、少し勇気を出してアジアに目を向ければ、必ずあります。そうした場では、いくら肩書きが立派でも、個人としてのバリューがなければ、評価はされません。それまで仕事でどんな経験をして、どんな知識、知恵、スキルを身につけてきたかが問われるのです。