日本のものづくりの力は遊びで育まれた

こうした事実は何を表しているのだろうか。

実は近代の日本の産業界をになった人物の多くが、学校ではなく、こうした生活の中でも工夫や努力によってもの作りの才覚を身につけていったということが示唆されている。

松下幸之助氏は小学校4年までしか行っていないし、本田宗一郎氏の学歴も小卒だ。私の親父もレコードを作らせたらこの人の右に出る人はいないと作家五味康祐にいわせた録音技師だったが、学歴はやはり小卒だ(『芸術新潮』1973年秋号)。

元京都大学教育学部教授だった藤本浩之輔氏が明治時代に子どもだった人に聞き取って、当時の生活を再現した『明治の子ども 遊びと暮らし』(本邦書籍1986年)という興味深い本があるが、その中でも明治時代の子どもの実にダイナミックな遊びの様子が聞き書きで再現されている。

それを見ても、明治以降の日本の近代化を最も底辺で支えたのは、もの作りの工夫を尋常ならざるレヴェルで追求した職人魂の持ち主たちで、その動機、志向性は生活の中特に遊びの工夫の中で育まれたという印象が強くなる。明治期の職人たちが、日本の産業革命後に工場で職工として活躍したのであるが、その職人的な志向性は子どもの頃の遊びの中に淵源をもっている。

1970年代に子どもの遊びは大きく変容した

原賀氏が再現したのは戦前から戦後の時期の子どもの遊びだが、戦後、高度経済成長期以降は、こうした遊びはどうなっていったのであろうか。

今度は一連の写真を見ていただきたい。

写真=『もう一つの学校』より
写真=『もう一つの学校』より
写真=『もう一つの学校』より

これらの写真は、写真家であり学校の教師であった宮原洋一氏が、趣味で撮り始めた頃の子どもの遊びの様子だ。宮原氏は1960年代の末頃から東京や川崎で、子どもの遊びや手伝いの様子を写真で撮り続けた。

氏が学校を定年でやめる2000年代になって、これまで何万枚と撮ってきた子どもの写真を整理してみたという。すると、この写真のようなダイナミックでときに大胆でスケールの大きな遊びは、1970年代に入ると急に減ってきて、80年代には全く撮れなくなったというのである。

日本では1970年代に子どもの遊びが大きく変容したのである。