昔の子どもはおもちゃを手作りしていた

昭和の子どもはどんな遊びをしていたのだろうか。

下記の絵は、熊本市に住むグラフィックデザイナーで印刷業等も営んでおられる原賀隆一さんが丹精込めて描かれた『ふるさと子供 遊びの学校』という本からのものだ。

原賀さんはこの本の中に、子どもの頃に遊んだ遊びや手伝いの様子を実にきめ細やかに自分の絵で再現している。原賀さんは1991年に『ふるさと子供グラフティ』という本を出版(自費)され、昭和の時代の遊びの面白さとそれが失われていく悲しさをバネに、子どもたちは実際にどんな遊びをしていたか、記憶をたよりに、絵でそれを表現し始めた方である。その後『ふるさと子供ウィズダム』を2年後に出され、その約10年後に引用の絵の描かれている『ふるさと子供 遊びの学校』を出版した。

イラスト=『ふるさと子供 遊びの学校』より
イラスト=『ふるさと子供 遊びの学校』より

この絵はミノ虫ごっこと名付けられているが、見てほしいのは、このミノ虫型の入れ物を子どもたちは自分の手で一からつくったということだ。本のその前のページにはその作業過程が紹介されている。それぞれがつくったら木に登り、枝までそろそろ進み、適当なところに手製のかごをぶら下げ、それから注意してその中に入る。見事なものというしかない。

その次は、体操ロボットと名付けられた遊び。小さくて見にくいかもしれないが、竹細工の一つだ。鉄棒選手を一人木で削ってつくり、削って大きさを整えた竹を組み合わせて鉄棒をつくってその腕を竹細工の鉄棒にはった紐に通す。その作業の様子が説明されている。今の子どもたちでも、こういうおもちゃをつくろうと呼びかければ、応じる子が多いのではなかろうか。

イラスト=『ふるさと子供 遊びの学校』より
イラスト=『ふるさと子供 遊びの学校』より

子どもたちは、ちょっと前までは、遊び道具、おもちゃの大部分を自前でつくるしかなかった。私などもそうで、親父にねだって、小学校に入る前に、大工道具一式自分のものをもっていた。ノミもカンナもブリキを切るはさみやガラス切りももっていた。それで何でも自分でつくるのである。

当時は、今のように児童公園などはない。

あるのは道ばた、原っぱ、河原、畑、田んぼ、川原、川、あぜ道、ドブ、橋の下、空き家、場合によっては海岸等だけだ。そこで遊ぶには、そこにあるものを最大限利用して何かの遊びを創造するか、遊び道具の方を工夫してつくり出すか、いずれしかなかった。遊び道具づくりは大人に教えてもらった子どもが代々伝えていったのだと思う。そのため、子どもたちは小さな折りたたみナイフを日常的に持ち歩いていた。写真に見られる肥後守ひごのかみというナイフだ。これで枝を切り、木を削り、何でも自分でつくろうとしたのだ。

肥後守 特選桐箱入 青紙鍛造
肥後守 特選桐箱入 青紙鍛造(写真提供=永尾かね駒製作所

今の社会で子どもがポケットに毎日ナイフを忍ばせていたらなんといわれるだろうか。しかし少し前までは日常的に、誰もが持ち歩いていたのである。