ゲーム以外の遊び場がない子どもたち
(前編から続く)
いまの子どもたちの遊びといえば、ビデオゲームが思い浮かぶ。
電化製品、AI商品の広まりによって、生活の簡便化、利便化、消費化がどんどん進んでいる今日、子どもたちの遊びの中心がビデオゲームとなっていくのはある意味必然だろう。ゲームはAI時代が生んだ新しい遊びのジャンルであることは間違いない。長時間熱中してしまう子どもが多く出てくるほど、面白いし、嗜癖性の強い遊びと言える。
しかし、ゲームはハラハラドキドキのストーリーを手と目でたどることはできても、自然の豊かな素材を相手に、偶然と格闘しながら遊びをアイデア豊かにつくり出すダイナミクスは体験できないし、子ども同士真剣に、けがするかもしれないという瀬戸際で自分たちを試すこともできない。
ましてや自然と交わることで活性化する感性の働きを自分の人格に取り込むこともできないし、手先の器用さを育み、手業足技文化を体に刻み込むこともできない。世界に対する能動性、作為力もどれほど身につくかわからない。
生きていく力をつけるために、現在の子どもたちにもゲーム以外に、かつての子どもたちのような、自由な遊びの体験が必要なのだ。なんとか乳幼児期から保障してやりたいものだと思う。
しかし、時代を元に戻すことはできない。昔に戻って、ということは、口では言えても、実際には不可能である。
以前の子どもたちがしていたような遊びを今の子どもたちにもさせたいと言っても、これからは川で自由に遊んでいい、近所に大きな秘密の基地をつくってもいい、とはいかないのである。何より道路がほとんど舗装されてしまった現在、子どもが遊べるようにと道路の舗装を剝がすというようなことは現実的ではない。
オランダのように、道路はもともと子どもの遊び場であったのに、自動車がそれを奪ったということで、たとえば4車線の道路であれば夕方1車線は自動車を通行止めにして子どもの遊び場にする、というようなことをしている国もあるが、日本のようにもともと道路面積が小さな国ではそれも難しい。